2019、9、22    聖霊降臨節第16主日礼拝      牧師 川﨑善三

「わたしの弟子」                    ルカ14:25~35 

  イエスさまの所に来た人が、すべて弟子となったわけではありません。神の恵みを受

けて、自分の家に帰って行った人々もありました。イエスさまはそのような人々も愛して

下さいました。あるとき、ひとりの人がイエスさまの所に来て、言いました「あなたがお

いでになる所なら、どこへでも従ってまいります」この人は情熱的な人でした。丁度、ペ

テロが最後の晩餐の席で言った言葉と似ています。ペテロは言いました「主よ、わたしは

獄にでも、また死に至るまでも、あなたとご一緒に行く覚悟です」(ルカ22:33)

ペテロはこの言葉のとおりすることができませんでした。しかし、イエスさまはペテロの

めに祈り、その信仰がなくならないように祈ってくださいました。「どこへでも従ってまい

ります」と言った人に、イエスさまはどう答えられたでしょうか。「きつねには穴があり、

空の鳥には巣がある。しかし、人の子にはまくらする所がない」イエスさまは三十歳にな

ってから、ナザレの町を出て公けの生涯に入られました。それからは、家に帰るというこ

とはありませんでした。イスラエルの町々、村々をめぐられ、神の国の福音を宣べ伝えら

れました。きつねや空の鳥には帰るねぐらや巣があるが、私には帰る家もない。心休まる

所がないと言われました。次に、イエスさまの方から声をかけて言われました「わたしに

従ってきなさい」その人は「父を葬りに行かせてください」と言いました。この人は躊躇

していました。イエスさまは「死人を葬ることは、死人にまかせて、あなたは神の国を告

げ広めなさい」と言われました。神の招きのあるとき、すぐにその招きに従いなさいと言

われました。三番目の人は言いました「主よ、従ってまいりますが、家の者に別れを言い

に行かせてください」この人はイエスさまに従う気持ちはありましたが、親子の情愛を断

ち切ってでもお従いするという気持ちがありませんでした。神に従うよりも、肉親との情

愛を優先する人は神の国にふさわしくないのです。「だれでも、父、母、妻、子、兄弟、

姉妹、さらに自分の命までも捨てて、わたしのもとに来るのでなければわたしの弟子とな

ることはできない」イエスさまの弟子となるには、それなりの覚悟がなければ弟子となる

ことはできません。献身して、伝道者、牧師のなった者の多くがイエスさまのこの言葉の

とおり家族を捨てて、その道に入りました。「自分の十字架を負うてわたしについて来るも

のでなければ、わたしの弟子となることはできない」イエスさまの弟子となるなら、イエ

スさまが受けた苦難を同じように受けなければなりません。この世は、イエスさまを憎み

ました。それは、イエスさまが世の罪を指摘されたからです。キリストの弟子となるため

に、肉の情愛から聖別されなければなりません。この世の欲からも聖別されなければなり

ません。自分の命までも捨ててイエスさまにお従いしなければならない時が来るかも知れ

ません。そんなとき、イエスさまのお言葉をしっかりと握って、お従いしたいと思います。