2019年11月17日 牧師 中村和光 師

門司大里教会 牧師

「わたしの気前の良さをねたむのか」 マタイ福音書20:1~16

聖書には、不思議な話が出て来ます。「善きサマリア人」や「放蕩息子」の話は、そのままでよく分

かります。ところが、この話はそのままでは、何を伝えようとしているのか理解ができません。

いったいなにが語られているのでしょうか。

「天国は・・・ようなものである」(20:1)「天国」「天の国」とは、「神の国」「神の支配」のことで

す。ですから、神様がこの世界をどんなに愛しておられるか、神様がわたしたちをどう扱われるか

という話なのです。

 「天国は、ある家の主人が、自分のぶどう園に労働者を雇うために、夜が明けると同時に、出かけ

て行くようなものである。(20:1)日雇いの人を雇うために、主人が自ら出かけることなどありませ

ん。番頭格の人に任せます。また、朝一番に必要な人数を雇って、それで終わりです。ところが、こ

の主人は何度も出かけて行きます。ですから、これは現実の話ではありせん。聖書を読むときには、

書かれている文字通りの話だけでなく、そこに隠された象徴的な意味を、合わせて読み取る必要があ

ります。 夕暮れ時にも、主人は出かけます。町の広場には、誰からも声がかからなかった人たちが

いました。仕事にあふれた人たちに、主人が声をかけます。「あなたがたも、ぶどう園に行きなさい」

(20:7)誰からも声がかからず途方に暮れている人を、招いてくださる神様の姿が示されています。「最

後にきた人々から・・・払ってやりなさい」(20:8)最後に来た人は、ほとんど働きらしい働きをして

いません。心細い思いでいる人たちを、早く安心させてやろうとされた。しかも、一日分の賃金です。

思いがけないことに、喜びの涙があふれたことでしよう。朝早くから働いた人たちの番になります。

気前の良い主人だから、きっとたくさんもらえるに違いない、と期待していた。

ところが同じ額だったので、不平を言います。「この最後の者たちは、一時間しか働かなかったのに、

あなたは一日じゅう、労苦と暑さを辛抱したわたしたちと同じ扱いをなさいました。」(20:12)

主人は言います。「友よ、わたしはあなたに対して不正をしていない。」(20:13)朝9時に雇った人に、

主人は約束しました。「相当な賃金を払う」(20:4)「相当な」という言葉は、ギリシャ語でディカイ

オス、神の「義」ディカイオスネーの形容詞形です。「正当に、まっとうに」払う、と約束したので

す。「不正」は、これに否定の接続語が付いたものです。神が約束してくださる報酬は、神の義、神

の正しさ、神の公平の基準によるのです。

 朝早くから働いた人たちが不平を言う姿は、「放蕩息子」の兄の姿と重なります。落ちぶれた姿で

帰ってきた弟息子を遠くから見つけた父親は、走り寄って抱きかかえ、晴れ着を着せ、祝宴を開いて

喜びます。兄がそれを見て、腹を立てます。自分は言いつけに従って我慢して働いてきたのに、何の

褒美もなかった。それなのに放蕩の限りを尽くした弟が丸裸になって帰って来ると、宴会を始めた、

と不平を言うのです。腹を立てる兄に、父親は言います。「あなたの弟は、死んでいたのに生き返り、

いなくなっていたのに見つかったのだから、喜び祝うのはあたりまえである」(ルカ15:32)お前は弟

息子に心を痛めてきた父の気持ちが分からないのか。父の言葉は、朝から一日中働いた人たちの不平

をなだめる主人の言葉と重なります。

 「わたしが気前よくしているので、ねたましく思うのか」(20:15)直訳すると「あなたの目は悪く

て、わたしの善が見えないのか」です。「悪い」はポネーロスというギリシャ語で、「善は」アガソス

です。この二つの言葉が並んでいる箇所が、マタイ5章にあります。「敵を愛し、迫害する者のため

に祈れ。」「5:44」に続いて、その理由を述べる言葉です。「天の父は、悪い者の上にも良い者の上に

も、太陽をのぼらせ、正しい者にも正しくない者にも、雨を降らして下さる」(5:45)この「悪い者」

がポネーロス、「良い者」がアガソスです。神は、立派な者も役に立たない者も、同じように愛して

くださる。むしろ、弱い者、情けない者ほど、気にかけてくださるのです。

 この話は、ペテロに向けて語られています。「このとおり、私たちは何もかも捨ててあな

たに従って参りました。では、わたしたちは何をいただけるのでしょうか。」(19:27)「わたしこそ」

と胸を張り、功績を誇る人に向かって、語られているのです。「このように、あとの者は先になり、

先の者はあとになる」(20:16)何の役にも立たないと見える人にも、神は愛を注いでくださる。神の

前では、誰も自分を誇ることができないし、自分を嘆く必要もありません。「この最後の者にもあな

たと同様に払ってやりたいのだ。」(20:14)わたしたちの働きや功績にかかわらず、神様は「与えよう」

となさる。「罪人」とレッテルを貼られた人、踏みつけにされている「小さな者」、なんの値打ちもな

いとされる「子供」を招いてくださるのです。