2021.5.9       復活節第6主日礼拝        牧師 川﨑善三

 「神への道」                      ヨハネ14:1~11

 最後の晩餐の席上イエスさまは、弟子たちに決別の説教をされました。これが最後だと

思うとき、イエスさまの心はどんな思いであられたでしょうか。「あなたがたは、心を騒が

せないがよい。神を信じ、またわたしを信じなさい」(ヨハネ14:1)弟子たちにとっての幸

福は、イエスさまと共にいることです。弟子たちにとっての不幸は、イエスさまと別れる

ことです。ですから、「わたしの行くところに来ることはできない」と言われ、悲しくなっ

たのです。そんな彼らに、イエスさまは言われたのです「神を信じ、またわたしを信じな

さい」神さまがおられて、わたしたちを祝福し、いつまでも守って下さると信じなさいと

言われたのです。それは、わたしたちが神さまに祈るとき、その祈りに神さまが答えて下

さるという経験を通して培われるものです。神さまに祈り、きかれると言う経験した者だ

けが、その信仰を持つことができるのです。その実例を聖書の中に捜して見ましょう。

 マタイ15:21~28「さて、イエスはそこを出て、ツロとシドンとの地方へ行かれた」

ツロとシドンとの地方へ行かれたときの話です。その地方出の女が出てきて「主よ、ダビ

デの子よ、わたしをあわれんでください。娘が悪霊にとりつかれて苦しんでいます」と言

って叫びつづけました。目の不自由なバルテマイが叫んだと同じ言葉で、彼女も叫びまし

た「主よ、ダビデの子よ」イエスさまはひと言もお答えになりませんでした。この女が、

なお叫びながら、あとをついてきたので弟子たちは言いました「先生、この女を追い払っ

てください。うるさく、つきまといますから」イエスさまが沈黙を守られるときは、なん

らかの目的があります。この場合、この女の願いの真剣さをテストされたのかも知れませ

ん。わたしたちが、神さまに祈りと願いをささげるとき、沈黙される場合があります。あ

なたの本心はどこにあるのか。なぜ、あなたはそのように願うのか。わたしたちの心の中

に不純な動機があるかないかを探られるのです。イエスさまは言われました「わたしは、

イスラエルの家の失われた羊以外の者にはつかわされていない」確かに、そうです。イエ

スさまの働きはユダヤ人に向けられた救いであって、異邦人にまで福音を宣べ伝えること

ではなかったのです。異邦人への福音は、弟子たちにゆだねられたのです。しかし、神の

恵みはユダヤ人、異邦人の別なく与えられるものでした。カナンの女はその事を信じてい

ました。彼女は言いました「主よ、わたしをお助けください」イエスさまは答えて言われ

ました「子供たちのパンを取って小犬に投げてやるのは、よろしくない」イエスさまは、

この女性に恵みが与えられる道のあることを示して下さいました。小犬に与えられるパン

のあることを教えて下さったのです。そうだ、小犬に与えられるパンがあると。「主よ、お

言葉どおりです。でも、小犬もその主人の食卓から落ちるパンくずは、いただきます」の

話は祈りのことであり、信仰についての話でもあります。わたしたちは、神さまがパ

くずを与えてくださる御方であると信じることができるでしょうか。