2022、3、6       受難節第1主日礼拝       牧師 川﨑善三

「心にしるす」                     エレミヤ31:27~34

 エレミヤは紀元前626年に、預言者として神に立てられ、その活動を始めました。エレミヤが活動を始めて20年後、エルサレムはその一部が破壊されました。それから20年後、紀元前586年に、エルサレムは焼かれ、ついにユダ王国は滅んでしまいました。エレミヤは「王国の終り」、「民族の死」について、その一部始終を見届ける預言者となりました。 エレミヤは、偶像礼拝を続ける国の指導者とその民衆に悔い改めるならば、神さまはバビロンの手から救われるであろうと叫び続けました。しかし、人々は悔い改めることをせず、神はわたしたちを救って下さると言い張って、ついにバビロンに滅ぼされてしまいました。

 エレミヤはユダ王国が滅ぼされたあとの時代について、神さまからお言葉をいただきました。「主は言われる、見よ、わたしが人の種と獣の種とをイスラエルの家とユダの家とにまく日が来る。わたしは彼らを抜き、砕き、倒し、滅ぼし、悩まそうと待ちかまえていたように、また彼らを建て、植えようと待ちかまえていると主は言われる」(エレミヤ31:27、28)神さまが彼らを滅ぼされたのと同じように、再び、人の種と獣の種をまいてくださる、国が繁栄し、人口が増し、野の獣も増えていくと、神さまは言われたのです。 「その時、彼らはもはや、『父がすっぱいぶどうを食べたので、子どもの歯がうく』とは言わない」(エレミヤ31:29) 父がすっぱいふどうを食べたら、その子どももすっぱいと感じる、そんなことわざが人々の間にありました。それは、父の罪が子におよぶと言うことを意味していました。なぜ、そんな事を人々が言っていたのでしょうか。それは律法に書かれていたからです。「あなたは自分のために、刻んだ像を造ってはならない。――それにひれ伏してはならない。それに仕えてはならない。あなたの神、主であるわたしは、ねたむ神であるから、わたしを憎む者には、父の罪を子に報いて、三、四代に及ぼし、わたしを愛し、わたしの戒めを守るものには、恵みを施して、千代に至るであろう」(出エジプト20:4~6)

 神さまは、エレミヤにこう言われました。神さまはモーセに与えられた律法を変更すると言われたのです。古い契約の言葉は、「父の罪を子に報いて、三、四代に及ぼす」というものでした。しかし、これからは父の罪を子が負わねばならないということはなく、「人はめいめい自分の罪によって死ぬ」と言われたのです。

 「しかし、それら日の後にわたしがイスラエルの家に立てる契約はこれである。すなわち、わたしはわたしの律法を彼らのうちに置き、その心にしるす。わたしは彼らの神となり、彼らはわたしの民となると主は言われる」これは、ご聖霊なる神がわたしたちの住んで下さる時が来ると言うことです。

〇わたしたちは、ご聖霊に導かれて、神と共に生きる生涯へと変えられます。

〇また、ご聖霊が神の言葉を、わたしたちに思い起させて下さいます。

わたしたちが、神さまに祈り、神さまからお言葉をいただくことができると言う経験が、この事です。ここに至って、わたしたちは神と共に生きるということが、どういう事なのかがわかるようになるのです。