2022、3、20      受難節第3主日礼拝      牧師 川﨑善三

「受難の予告」                    マルコ8:27~38

 イエスさまが、弟子たちと共にピリポ・カイザリヤの村々へ出かけられた時のことです。ピリポ・カイザリヤはイスラエルの最北端の位置する地方です。このあたりから、ヘルモン山が見えました。また、西側には地中海に面したツロとシドンの町がありました。いわば、田舎も田舎、イスラエルの国境近くの村に、イエスさまは弟子たち共に行かれたのです。

 イエスさまは道々、弟子たちに話しかけて言われました「人々は、わたしをだれだと言っているか」すると、弟子たちは口々に答えて言いました「バプテスマのヨハネだと言っています。また、エリヤだと言い、また、預言者のひとりだと言っている者もあります」要するに、イエスさまは神からつかわされて、福音を宣べ伝えている人だと思っていたということです。そこで、イエスさまは弟子たちに尋ねられました「それでは、あなたがたはわたしをだれだと思っているのか」すると、ペテロが答えて言いました「あなたこそキリストです」ペテロは最初から、この信仰を持っていたわけではありません。彼は、最初イエスさまを「主」と呼びました。「主よ、わたしから離れてください。わたしは罪深い者です」(ルカ5:8)それから、神の聖者だと言いました。「主よ、わたしたちは、だれのところに行きましょう。永遠の命の言をもっているのは、あなたです。わたしたちは、あなたが神の聖者であることを信じ、また知っています」(ヨハネ6:68、69)そして、ペテロは「あなたこそキリストです」と告白したのです。ベツサイダの目の不自由な人は、イエスさまによって見えるようになった時、だんだん見えるようになりました。それと同じように、ペテロの信仰もだんだん深められていったのです。

「わたしたちは、今は、鏡に映してみるようにおぼろげに見ている。しかしその時には、顔と顔を合わせて見るであろう」(Ⅰコリント13:12)わたしたちは、今は霊の世界のことを、おぼろげに見ているに過ぎません。しかし、よみがえって主の御前に立つ時、すべてのことをはっきりと見ることができるようになります。この世において、どうして、このような苦しみを経験しなければならなかったかを知ることができるのです。

「あなたこそキリストです」ペテロの信仰告白を受けて、イエスさまは受難の予告をされました。「人の子は必ず多くの苦しみを受け、長老、祭司長、律法学者たちに捨てられ、また殺され、そして、三日の後によみがえる」イエスさまは、ご自分の民のところに来られたのに、彼らはイエスさまを救い主として、受け入れなかっただけでなく、イエスさまを見捨てて、ローマ人の手に渡して十字架につけて殺してしまったのです。

この時、ペテロはイエスさまをわきへ引き寄せて、いさめ始めました。どうして、そんなことがあり得ましょうか。イエスさまはペテロをしかって言われました「サタンよ、引きさがれ。あなたは神のことを思わないで、人のことを思っている」イエスさまの十字架は、だれもとどめることのできないものです。イエスさまは、その道をご自分から選んで、進んでいかれたのです。そのご決意に、わたしたちは感謝するばかりです。