2022、3、27      受難節第4主日礼拝      牧師 川﨑善三

「弟子たちの不信仰」                 マルコ9:30~37

 イエスさまは、ピリポ・カイザリヤからガリラヤを通って、カペナウムに帰って来られました。途中、イエスさまは受難の予告を、もう一度語られました。         「人の子は人々の手にわたされ、彼らに殺され、殺されてから三日ののちによみがえるであろう」二度目の予告です。普通ならば、それはどういう意味ですかと尋ねる人がいてもよいように思いますが、この時も、弟子たちはだれひとり、イエスさまの言われたことを尋ねる者がいませんでした。それは、尋ねるのを恐れていたからです。それから、カペナウムに着き、家におられるとき、イエスさまは弟子たちに尋ねられました。「あなたがたは途中で何を論じていたのか」そのように聞かれて、だれもそれに答えることができませんでした。彼らは途中で、だれが一番偉いかと、互いに論じ合っていたからです。イエスさまは、十二弟子を呼んで、言われました「だれでも一ばん先になろうと思うならば、一ばんあとになり、みんなに仕える者とならねばならない」

 エジプトを出たモーセは、イスラエルの人々のしんがりとなって進みました。一番、後ろには老人や婦人、そして幼な子たちがいました。モーセは、それらの弱い人々、小さい人々を励まし、助けながら道に進んだのです。80歳のモーセが、そのようなしたのです。イエスさまはそのことを知っておられました。それから、イエスさまはひとりの幼な子を彼らの真ん中に立たせ、その子を抱いて言われました「だれでも、このような幼な子のひとりを、わたしの名のゆえに受けいれる者は、わたしを受けいれるのである。わたしを受けいれる者はわたしを受けいれるのではなく、わたしをおつかわしになったかたを受けいれるのである」小さい幼な子がイエスさまのことを話し、その言葉を信じる人は、その子を信じるだけでなく、イエスさまを信じるのですと主は言われました。そして、イエスさまを信じる人は、神さまを信じるのです。こんな小さな子の言うことは信じられないと大人は言うかも知れません。しかし、大人のプライドを捨てて幼な子の目線まで降りていって、その子の言うことを信じる、そのようにへりくだった所に救いがあるとイエスさまは言われたのです。わたしたちはへりくだった心をもって、イエスさまを心の中にお迎えしているでしょうか。幼な子のような心で、主イエスを信じていきましょう。「しもべは聞きます。主よ、お語りください」わらべサムエルの言葉

をわたしたちの言葉として、主にお祈りしましょう。