2022、5、15       復活節第5主日礼拝       牧師 川﨑善三

「まことのぶどうの木」                  ヨハネ15:1~11

イスラエルは、聖書では、いちじく、あるいは、ぶどうにたとえられています。

「わたしはわが愛する者のために、そのぶどう畑についてのわが愛の歌をうたおう。わが愛する者は土肥えた小山の上に、一つのぶどう畑をもっていた。彼はそれを掘りおこし、石を除き、それに良いぶどうを植え、その中に物見やぐらを建て、またその中に酒ぶねを堀り、良いぶどうの結ぶのを待ち望んだ。ところが結んだものは野ぶどうであった」(イザヤ5:1、2)ぶどうは、古代オリエントでは健康と富の象徴でした。酒は適量であれば、わたしたちに健康をもたらしてくれます。しかし、度を過ぎれば害になります。イエスさまは、イスラエルびとが、ぶどうにたとえられているのを、よくご存じでした。そして、こう言われました「わたしはまことのぶどうの木、わたしの父は農夫である。わたしにつながっている枝で実を結ばないものは、父がすべてこれをとりのぞき、実を結ぶものは、もっと豊かに実らせるために、手入れしてこれをきれいになさるのである」(ヨハネ15:1、2)ぶどうの木は、かよわい枝で、太くなって材木になるような木ではありません。ふどうの木はその実がなってはじめて、役に立ちます。したがって実を結ばない枝は切られて、投げ捨てられ、枯れてしまいます。そして、その枯れた枝はかき集められて、火に投げ入れられて、焼かれてしまいます。これは、わたしたちが実をむすばなかったら、どうなるかと言うことをお話になったのです。

聖書には、実を結ばなかった、いちじくの話が出てきます。「ある人が自分のふどう園にいちじくの木を植えて置いたので、実を捜しにきたが見つからなかった」(ルカ13:6)

いちじくの木も、また実をみのらせるものです。ところが、このたとえでは、ぶどう園に植えられたいちじくは、実をみのらせなかったというのです。それも、三年間も続けて実がならなかったのです。そこで、主人は園丁に言いました「わたしは三年間も実を求めて、このいちじくの木のところにきたのだが、いまだに見当たらない。その木を切り倒してしまえ。なんのために、土地をむだにふさがせて置くのか」本来なら、ぶどうの木を植え、ぶどうを収穫できるのに、このいちじくは三年間も実を結ばなかった。すぐに切り倒してしまえと、主人は言ったのです。すると、園丁は答えて、言いました「ご主人様、もう一年待って下さい。そのまわりを掘って肥料をやって見ますから。それで来年実がなりましたら結構です。もしそれでもだめでしたら、切り倒してください」もし、わたしたちがこのいちじくの木であったなら、切り倒されてしまうでしょう。しかし、園丁がとりなしてくれたので、切り倒されなかったのです。

「わたしにつながっていなさい。そうすれば、わたしはあなたとつながっていよう」(ヨハネ15:4)ぶどうの枝が実をむすぶためには、木につながっていなければなりません。わたしたちが、イエス・キリストにつながっていなければ、実を結ぶことができません。しっかりと、イエスさまにつながっていましょう。