2022、10、30       降誕前第8主日礼拝       牧師 川﨑善三

「目はからだのあかり」                   ルカ11:33~41

イエスさまは、世の光としてこの地上に来て下さいました。クリスマスに私たちはヨハネ福音書のこの言を呼んで、その事を教えられます。「初めに言があった。言は神と共にあった。言は神であった。~この言に命があった。そしてこの命は人の光であった。光はやみのなかに輝いている。そして、やみはこれに勝たなかった」(ヨハネ1:4、5)      イエスさまは、サタンの支配するこの世に来て下さり、サタンの奴隷となっていたわたしたちを救い出して下さいました。闇の世界から光の世界へと移して下さったのです。またヨハネ第一の手紙一章にも、こう書いてあります。「わたしたちがイエスから聞いて、あなたがたに伝えるおとずれは、こうである。神は光であって、神には少しの暗いところもない」(Ⅰヨハネ1の5)イエスさまは世の光であり、イエスさまと交わりをしながら生きる私たちも世の光となるのです。イエスさまの光を、この世にともしていく存在となるのです。

「あなたがたは、世の光である。山の上にある町は隠れることができない。また、あかりをつけて、それを枡の下におく者はない。むしろ、燭台の上において、家の中のすべてのものを照らさせるのである」(マタイ5:14、15)あかりを枡の下におくならば、その役割を果たすことはできません。あかりは燭台の上において部屋を照らし出すために用いられるものであるとイエスさまは言われました。そして、言われました、「あなたの目は、からだのあかりである」目そのものが光を発するわけではありません。目は、からだの「あかりとり」であると言われたのです。目がすんでいれば、外からの光をよく取り入れることができる、神さまからの光を内に取り入れ、私たちの心は善悪の基準を教えられ、神さまからの光で、私たちの心の汚れを示され、光によって清められ、私たちは清い生活を送ることができるようになるのです。神が光であるように、私たちも光になると言うことは、そういうことです。イエスさまは、あなたの目をしっかりと開いて、神の光を求めて清くなりなさいと言われるのです。                           

また、イエスさまを招待したパリサイ人が、イエスさま達が手を洗わないで食事をするのを見て、不思議そうにしているのを見て、イエスさまは言われました「あなたがたパリサイ人は、杯や盆の外側をきよめるが、あなたがたの内側は貪欲と邪悪とで満ちている。愚かな者たちよ、外側を造ったかたは、また内側も造られたではないか。ただ、内側にあるものをきよめなさい。そうすれば、いっさいがあなたがたにとって、清いものとなる」

(ルカ11:39~41)神さまは、私たちを清いものとするために造られました。私たちの目が、いつも澄んでいるならば、神の光によって、私たちの内は照らされ、清くされていくのです。今日、私たちは、神さまの光が見えるように目が澄んでいるでしょうか。点検いたしましょう。