2023、3、19     受難節第4主日礼拝        牧師 川﨑善三

「三人の人」                       ルカ9:46~62

 弟子たちの思いとイエスさまが彼らに求めておられるものとが、どんなにかけ離れていたかが、聖書に記述されています。イエスさまが山から下りてこられた時、十二弟子は自分たちのうちで誰が一番偉いかと議論をはじめました。イエスさまは、弟子たちがそんなことで論じあっているのを聞いて、残念に思われました。そして、ひとりの幼な子をそばに立たせて言われました「だれでもこの幼な子をわたしの名のゆえに受けいれる者は、わたしを受け入れるのである。そしてわたしを受け入れる者は、わたしをおつかわしになったかたを受けいれるのである。あなたがたの中でいちばん小さい者こそ、大きいのである」(ルカ9:48)幼な子をイエスさまの名のゆえに受けいれるという事は、たとえ、小さな子であってもイエスさまを救い主であると告白しそのことを人に語るとき、その人が幼な子の言うことを受け入れると言うことです。すなわち、信じることです。幼な子の言うことを信じる人とは、その心がへりくだっている人の事です。高慢な人は、幼な子の言うことを信じません。心のへりくだった者だけが、幼な子と同じ所までへり下っていき、幼子と同じ立場に立ってその言うことを聞き、信じることができるのです。イエスさまは、わたしの名のゆえに幼な子を受け入れる者は、神もその人を受け入れ、その人を高くあげて下さるのである、そういう人こそ大いなる者であると言われたのです。

なおも、イエスさまが道を進んでいかれると、三人の人がイエスさまの所に来て言いました「あなたがおいでになる所なら、どこへでも従ってまいります」ペテロもおなじようなことを言いました。「主よ、わたしは獄にでも、また死に至るまでも、あなたとご一緒に行く覚悟です」(ルカ22:33)しかし、ペテロはその日、イエスさまを三度知らないと言ってしまいます。この人に対して、イエスさまはこう言われました「きつねには穴があり、空の鳥には巣がある。しかし、人の子にはまくらする所がない」そんなわたしと共に、行動する覚悟がありますかと言われました。この人は、この覚悟がなかったようです。また、ほかの人に、イエスさまは言われました「わたしに従ってきなさい」すると、その人は言いました「まず、父を葬りに行かせてください」イエスさまは彼に言われました「死人を葬ることは、死人に任せておくがよい。あなたは出て行って神の国を告げひろめなさい」また、ほかの人が言いました「主よ、従ってまいりますが、まず家の者に別れを言いに行かせてください」イエスさまは言われました「手をすきにかけてから、うしろを見る者は、神の国にふさわしくないものである」この三人は、イエスさまの弟子になれなかったようです。神さまは、わたしたちの心を見る御方です。わたしたちがどういう思いで信仰生活を送っているか、みなご存じです。うそ偽りのない幼な子の心のような信仰をもって主イエスにお従いしてまいりましょう。