2023、9、3      聖霊降臨節第15主日礼拝    牧師 川﨑善三

「主のとりなし」                    ルカ13:1~9

ある人々がイエスさまの所にやってきて、その頃起こった不幸な出来事について話しました。それはローマ総督ピラトが、ガリラヤ人たちを殺したという事件でした。このガリラヤ人たちは神の宮で犠牲のいけにえを捧げている時に、ピラトの命令をうけたローマ兵によって殺されたと言う事件でした。イエスさまは、その知らせを届けてくれた人々に言いました「それらのガリラヤ人が、そのような災難にあったからといって、他のすべてのガリラヤ人以上に罪が深かったと思うのか。あなたがたに言うが、そうではない。あなたがたも悔い改めなければ、みな同じように滅びるであろう」ピラトの命によって殺されたガリラヤ人は、他のガリラヤ人以上に罪が深かったのではない。あなたがたも悔い改めなければ、彼らと同じ目にあうであろうと主は言われるのです。災難にあう人が罪深い人であり、災難にあわない人は罪深くないと考える傾向が、当時のユダヤ人にあったと言うことです。

イエスさまは、また、もうひとつの事件についてもお話になりました。「シロアムの塔が倒れたためにおし殺されたあの十八人は、エルサレムの他の住民以上に罪の負債があったと思うか。あなたがたに言うが、そうではない。あなたがたも悔い改めなければ、みな同じように滅びるであろう」エルサレムにシロアムという池がありました。目の不自由な人がいて、イエスさまが、つばきで泥をこね目に塗って言われました「シロアムの池に行って目を洗いなさい」シロアムの池で工事が行われていました。その工事のための塔がくずれて十八人の人が死んだという事件のことを、イエスさまは言われたのです。「彼らは他のエルサレムの住民以上に罪の負債があったのではない。あなたがたも悔い改めなければ、同じように滅んでしまうであろう」他人の不幸を見ても自己反省しない、わたしたちの高慢さがよく現れている話です。だからと言って、神さまは、わたしたちの罪をすぐに裁かれる御方ではありません。

ある人が自分のふどう園にいちじくの木を植えました。その人は、いちじくの実がなる頃にその木のところへ行った実を探しましたが、見当たりませんでした。そこで、その人は園丁に言いました「わたしは三年間も実を求めて、このいちじくの木のところにきたのだが、いまだに見当たらない。その木を切り倒してしまえ。なんのために土地をむだにふさがせて置くのか」ぶどう園はイスラエルのことであり、その中に植えられたいちじくの木はエルサレムのことです。そして、主人にとりなす園丁は、イエスさまです。イエスさまはいちじくの木が実をむすぶことを、すなわち、エルサレムの人々が悔い改めの実をむすぶことを期待しておられます。

今も、イエスさまは私たちのためにとりなして下さっているのです。