2023、9、10      聖霊降臨節第16主日礼拝      牧師 川﨑善三

「命までも捨てて」                     ルカ14:25~35

 イエスさまのまわりに、大ぜいの群衆が集まってきました。彼らはイエスさまのゆく所、ゆく所について廻ったのです。彼らはパンの奇跡を見ました。病人が癒されるのを見ました。また悪霊が追い出されるのを見て、イエスさまの所にやってきたのです。

 イエスさまは、彼らの方を向いて言われました「だれでも、父、母、妻、子、兄弟、姉妹、さらに自分の命までも捨てて、わたしのもとに来るのでなければ、わたしの弟子となることはできない。自分の十字架を負うてわたしについて来るものでなければ、わたしの弟子となることはできない」わたしたちは、自然のままでは自己中心的な生き方をする者です。肉親への愛も、その本能から生じ私欲、私情がこれに付随しています。この人間の自然性は神中心の心に反対するものです。そして、イエスさまに従うよりもこの世に従い、神よりも家族や自己愛を優先するのです。そういった生まれつきの愛を捨てて、イエスさまに従う覚悟がなければ、イエスさまの弟子となることはできません。献身して、伝道者の道に進もうとする者は、皆この事が問われます。父、母、兄弟、姉妹を捨てて神学校に入学してきます。その時からこの世と一切かかわりのない生活が始まるのです。

また、イエスさまは自分の十字架を負うて、わたしについて来るのでなければ、わたしの弟子となることはできないと言われました。イエスさまの弟子となる者は、イエスさまの受ける苦難を共にうけなければなりません。それが、弟子たる者の負うべき十字架です。

「今わたしは、あなたがたのための苦難を喜んで受けており、キリストのからだなる教会のために、キリストの苦しみのなお足りないところを、わたしの肉体をもって補っている」(コロサイ1:24)パウロは、「キリストの苦しみのなお足りないところを。わたしの肉体をもって補っている」と言いました。キリスト救いが完全ではなかったと言っているのではありません。キリストの十字架の苦しみを共にしているのだと、言っているのです。

 また、キリストの弟子となるものは、そのすべてを主のために費やす覚悟がなければならないと言われました。

 ある人が邸宅を建てようとしました。それを仕上げるのに足りるだけの金を持っているかどうか、まず、すわってその費用を計算しないだろうか。そうしないと土台をすえただけで完成することができず、見ているみんなの人が、「あの人は建てかけたが、仕上げができなかった」と言ってあざ笑うようになろう。最後まで仕上げる資金がなければ、とりかかることができないように、キリストの弟子となるものは、そのすべてを主のために費やす覚悟がなければならないと言われたのです。「自分の十字架を負うて、わたしに従ってきなさい」誠心誠意、主にお従いしてまいりましょう