2023、10、29      降誕前第9主日礼拝       牧師 川﨑善三

「受 肉」                         ヨハネ1:1~14

 イエスさまという御方は、どういう御方であったのか、聖書はこのように教えてくれています。

 マタイ福音書では王なるキリスト、マルコ福音書では僕なるキリスト、ルカ福音書では人としてのキリスト、ヨハネ福音書では神の子なるキリストと記されています。

「初めに言があった。言は神と共にあった。言は神であった。この言は初めに神と共にあった」(ヨハネ1:1、2)「初めに」とは天地万物が創造されるより前の「初め」であります。

「はじめに神は天と地とを創造された」(創世記1:1)この初めの時のことであります。

「主が昔そのわざをなし始められるときは、そのわざの初めとして、わたしを造られた」

(箴言8:22)イエス・キリストは、「初めから」とは父なる神と共にすでに存在しておられたという意味の御言葉です。ヨハネ福音書は、神の子キリストについて書かれていると言いましたが、これらの御言葉によって、イエスさまが子なる神であると示されているのです。そして、子なる神であられるイエス・キリストが人間の姿をとって、この世に来て下さったのです。

「言は肉体となり、わたしたちのうちに宿った。わたしたちはその栄光を見た。それは父のひとり子としての栄光で、めぐみとまこととに満ちていた」(ヨハネ1:14)神が肉体をとって私たちの所に来て下さったという事は、神の奥義です。神さまは、私たちに罪を悔い改めて救われると言われるだけでなく、御子イエス・キリストをこの世界におつかわしになって、私たちに救いの道をお示しくださったのです。

「律法はモーセをとおして与えられ、めぐみとまこととは、イエス・キリストをとおしてきたのである」(ヨハネ1:17)イエス・キリストは律法を守ることのできない私たちに、悔い改めなさい、神さまにごめんなさいと言って立ち返るならば救われると教えてくださったのです。

「キリストは、神のかたちであられたが、神と等しくあることを固守すべき事とは思わず、かえって、おのれをむなしうしての僕のかたちをとり、人間の姿になられた。その有様は人と異ならず、おのれを低くして死にいたるまで、しかも十字架の死に至るまで従順であられた」(ピリピ2:6~8)神が人となられるということだけでも、素晴らしいことなのにその上に、イエスさまは私たちの身代わりとなってくださり、十字架にかかり死んで下さったのです。これ以上の愛があるでしょうか。

「めぐみとまこととは、イエス・キリストをとおしてきたのである」

イエス・キリストを見上げるとき、私たちは自分の罪を悟ることができます。そして、イエスさまに、罪人の私をゆるして救って下さいと告白することができるのです。神が人となって私たちの所に来て下さいました。「受肉の奥義」は現代においても語り継がれる神の真理です。