2023、12、3     待降節第1主日礼拝       牧師 川﨑善三

「わたしをつかわされたかた」              ヨハネ7:25~31

エルサレムにいる人々がみんな、イエスさまのことを信じていたわけではなく、また

イエスさまのことを嫌っていたわけではありません。                               「さて、エルサレムのある人たちが言った『この人は人々が殺そうと思っている者ではないか』」(ヨハネ7:25)彼らは知っていました。祭司長やパリサイ人たちが、イエスさまを殺そうとしていることを知っていました。そんな風に憎まれ、嫌われているイエスさまが、神の宮で堂々と説教をしておられる有様を見て、エルサレムのある人々は、この人がキリストであることを役人たちは知っているのではないかと思ったのです。

「わたしたちはこの人がどこからきたのか知っている」(ヨハネ7:27)人々は、イエスさまのことをどんな風に思っていたのでしょうか。「これはヨセフの子イエスではないか。わたしたちはその父母を知っているではないか。わたしは天から下ってきたと、どうして今いうのか」(ヨハネ6:41、42)人々は知っていました。イエスさまはナザレ出身で、父はヨセフ、母はマリヤの息子でその兄弟姉妹のことも知っていました。「しかし、キリストが現れる時には、どこから来るのか知っている者は、ひとりもいない」(ヨハネ7:27)メシヤが来るとき、公然とみんなの前に現れるまでは、どこかに隠れていて、本人すらも自分がメシヤであることを知らないし、また、その力を現わすこともないと言うのが、一般的に信じられていたメシヤ観でありました。しかし、そのメシヤ観は、極めて表層的なものであり、人の言い伝えの類と言ってよいものでした。この時、イエスさまは宮の内で人々に教えておられました。そして、大声で叫んで言われました「あなたがたは、わたしを知っており、また、わたしがどこからきたかも知っている。しかし、わたしは自分からきたのではない。わたしをつかわされたかたは真実であるが、あなたがたは、そのかたを知らない。わたしは、そのかたを知っている。わたしはそのかたのもとからきた者で、そのかたがわたしをつかわされたのである」イエスさまは、人々がイエスはナザレからきたものであると言うのは正しいと言われました。それと共に、霊的には、わたしは父なる神からつかわされたのであると言われたのです。

イエスさまを信じるわたしたちは、イエスさまが行われたわざを、同じように行うことができると、主は言われました。「わたしが父におり、父がわたしにおられることをあなたは信じないのか。わたしを信じる者は、またわたしのしているわざをするであろう。そればかりか、もっと大きいわざをするであろう。わたしが父のみもとに行くからである」(ヨハネ14:10、12) 柘植先生は、このみとばを信じ、神癒の信仰をもって病の癒しをお祈りされたのです。わたしたちも、神癒の信仰をもつてご病気の人々のためにお祈りいたしましょう。