2024、1、7       降誕節第2主日礼拝        牧師 川﨑善三

「御霊によって授ける」                 ヨハネ1:24~34

 神さまは、私たちの目には見えない御方です。目には見えませんが、永遠のはじめから永遠のおわりまで確かに存在しておられる御方であり、わたしたちの皮が滅ぼされ、肉を離れるとき、お会いできる御方です。(ヨブ19:26)しかし、三位一体のひとり子なる神イエス・キリストは、人の姿をとって私たちの世界にやってこられました。バプテスマのヨハネは、そのことを人々にあかしをするために生まれてきました。ヨハネの語った言葉は、当時の人々に大きな感動を与えました。人々は、ヨハネをまことの光ではないか、救い主ではないかと大きな期待をかけました。しかし、ヨハネは光ではなく、ただ光についてあかしをするためにきたのです。ヨハネは「わたしのあとに来るかたは、わたしよりもすぐれたかたである。わたしよりも先におられたからである」と言いました。キリストの先在性、永遠はじめから父なる神と共におられた御方であると言ったのです。そして、私たちはイエス・キリストを信じることによって、恵みに恵みをまし加えられる世界に生きることができると言いました。「律法はモーセをとおして与えられ、恵みとまこととはイエス・キリストをとおしてきたのである」とヨハネは言いました。イエス・キリストを信じることによって与えられる、めぐみとまこととは罪のゆるしのことです。イエス・キリストを信じ、神に立ち帰るならば、誰でもその罪がゆるされ、罪のないものとして神さまの祝福が受けることができるようになるのです。

イエスさまはユダヤからガリラヤへ帰られる途中、サマリヤのスカルという町にやってこられました。昼の12時ごろ、その町に到着しました。弟子たちが食物を買いに町に行っている間に、イエスさまはひとりの女性に出会い、水を飲ませて下さいと言いました。この女性は、どうしてわたしにそのような事を頼むのかと思いました。ふつう、ユダヤ人はサマリヤ人を軽蔑し、高圧的に「水を飲ませろ」と言うはずなのに、イエスさまは謙遜に「水を飲ませてください」とお願いしたのです。この女は、イエスさまの謙遜さに心打たれました。そして、イエスさまは、こうも言われました「もし、あなたが神の賜物のことを知り、また『水を飲ませてくれ』と言った者が、だれであるか知っていたならば、あなたのほうから願い出て、その人から生ける水をもらったことであろう」イエスさまは、この人に生ける水を求める願いを起こさせようと、こういうことを言われたのです。また、言われました「わたしの与える水は、その人のうちで泉となり、永遠の命に至る水がわきあがるであろう」この言葉を信じて、この人は自分の過去の罪を告白してイエスさまを信じました。この人は救われ、信仰によって生ける水を与えられたのです。律法を守ることによってではありません。イエスさまのお言葉を信じることによって、「生ける水」をいただいたのです。姦淫の現場をとらえられた女も、イエスさまのお言葉によってその罪がゆるされたのです。「わたしもあなたを罰しません。お帰りなさい。今後はもう罪を犯さないように」このふたつの事例によっても、「めぐみとまこととはイエス・キリストをとおしてきた」と言うことがわかります。今年も、このイエスさまと共に歩いていきましょう。