2024、2、4      降誕節第6主日礼拝       牧師 川﨑善三

「いやすキリスト」                     ヨハネ5:1~17

 イエスさまは、数多くの病人を癒されました。今日の話は、その中のひとつです。   「こののち、ユダヤ人の祭があったので、イエスはエルサレムに上られた」エルサレムにある羊の門のそばに、ベテスダと呼ばれる池がありました。エルサレムは城塞都市で、周囲を城壁で囲まれていたので、いろいろな門がありました。羊の門は羊の売買のために、商人がこの門から出入りしていたことを示すものです。エルサレムの街中にあるベテスダの池、そこに五つの廊がありました。その廊の中に、病人、目の不自由な人、足の悪い人、やせ衰えた者たちが、大ぜいからだを横たえていました。まるで、総合病院の待合室のような感じです。なぜ、そんなに大ぜいの人がそこに集まっていたのでしょうか。それは、ベテスダの池の水が動くとき、まっ先に水にはいる者が、その病を癒されたという評判があり、みんなが集まってきていたのです。そうした病にかかっている人々の希望をつなぐ場所に、三十八年間も病気で悩んでいる人がいました。人生の大半を、その人はその場所で過ごしていました。この人の病は、もうどうにもならないようなものであったと言うことです。しかし、人の絶望は、神の希望です。私たちがこの世のなにものにも希望を見出すことができなくなった時、神さまを見上げることができるのです。イエスさまは、その人に近寄り声をかけて言われました「なおりたいのか」。イエスさまは、この人の事をよく知っておられました。それまで、どんなに苦しみ、悲しんだであろう、その人の人生のすべてをご存知でした。ですから、この時の言葉は「さぞかし、なおりたいと思っているでしょうに」と言う、深い同情のこもったものでした。この人は答えました「主よ、水が動く時に、わたしを池の中に入れてくれる人がいません。わたしがはいりかけると、ほかの人が先に降りていくのです」病人の世界にも、自分だけがなおりたいという気持ちがあります。この人を助けてあげようという譲り合いの気持ちは、そこにはありません。この人は、手助けしてくれる人があればと言いました。目の前に癒し主であるイエスさまがおられるのに、その事がわかりませんでした。イエスさまはこの人に言われました「起きて、あなたの床をとりあげ、そして歩きなさい」すると、この人は病が癒されたことを身に感じ、すぐに床をとりあげて歩いていきました。ペテロも、生まれつき足のきかない人に言いました「金銀はわたしにはない。しかし、わたしにあるものをあげよう。ナザレ人イエス・キリストの名によって歩きなさい」私たちは、イエスを信じる信仰らによって歩くのです。信仰によって、毎日を感謝して生きるのです。ユダヤ人は「安息日に床を取り上げるのはよろしくない」と言って、イエスさまを責めました。そこで、イエスさまは彼らに答えられました「わたしの父は今に至るまで働いておられる。わたしも働くのである」

父なる神は、今に至るまで一日の休みもなく、私たちのために働いて下さっています。イエスさまも働いておられます。今日、この時も、私たちは主の癒しにあずかることができるのです。