2024、2、18                       牧師 川﨑善三

「荒野にて」                        マタイ4:1~17

聖書には、私達の理解できないような、不思議な話が記されています。不思議なこと、理解できないような事柄であったとしても、それが偽りであり、有り得るはずのない事であると断定するのはまちがいであります。世の中には、私達の理解できないようなこと、説明できないような事がたくさんあると言うことを、私達は謙虚な思いになって受けとめたいと思います。イエスは、ヨルダン川でバプテスマを受けられて、父なる神の御声を聞き、ご自分が救い主として、この世につかわされたと言うことを自覚されました。この日以来、イエスは自分のためにではなく、私たち人間のためにご自身のすべてを使い尽くすと言う公けの生涯に入られたのであります。「さて、イエスは御霊によって荒野に導かれた。悪魔に試みられるためである」(1節)公けの生涯に入ると言うことは、ご聖霊の導きに従うと言うことを第一とする、生涯に入られたという事です。主は言われました「わたしは、自分から何事もすることができない。父がお示しになることを私は行うだけである」父なる神がイエスさまに御心をお示しになる方法は、ご聖霊がイエスさまに教えられることであり、ご聖霊がイエスさまを導かれるということであります。「さて、イエスは御霊によって荒野に導かれた。悪魔に試みられるためである。」荒野は、私達の人生そのものであります。緑の牧場のように、水があり、草花が咲き、数々の生き物がその命を保たれる豊かな地ではありません。そこは、石ころだらけの原野であり、雨が降れば、身を隠すこともできないような所であります。そんな所で、イエスは40日40夜、断食をして過ごされました。40日40夜は、聖書において意義深い数字であります。モーセもエリヤも、40日40夜、シナイ山に登りました。イエスは、定められた期間が終わった時、空腹になられました。すると、試みる者がきて、イエスに言いました。「もし、あなたが神の子であるなら、これらの石がパンになるように命じてごらんなさい」イエスはご自分の肉体の飢えを満たすために力を用いることはされませんでした、それは、神の御心に反することでした。「人はパンだけで生きるものではなく、神の口から出る一つ一つの言で生きるものであると書いてある」私たちの魂を養ってくれる最上のものが、神の御言葉であると言うことです。悪魔は、三度イエスを誘惑しました。イエスさまは、聖書の言葉を用いてその誘惑を退けられました。私たちも、誘惑されることがあります。イエスさまが悉く悪魔の誘惑に勝利されたように、私たちも御言葉によって、サタンに勝利してまいりましょう。