2024、2、25      受難節第2主日礼拝        牧師 川﨑善三

「イエスはキリスト」                     ヨハネ9:1~12

 イエスさまが肉体の癒しを行われたことが、聖書には十七回出てきます。役人の息子の病が癒されたという奇跡、三十八年間、わずらっていた人が癒されたこと。ペテロの姑の熱病が癒されるという事もありました。そのような癒しの中で、注意をひくのは目の不自由な人が癒され、見えるようになったという奇跡です。イエスさまがエルサレムに来られたときのことです。道ばたに、生まれつき目の不自由な人がすわっていました。弟子たちが尋ねました「先生、この人が生まれつき目が不自由なのは、だれが罪を犯したためですか。本人ですか、それとも、その両親ですか」ユダヤ人は、罪の結果としていろいろな災いにあったり、病気になったりすると思っていました。しかし、イエスさまはそんな風に思っておられません。「ただ、神のみわざが、彼の上に現れるためである」と言われました。そして、イエスさまは地面につばきをし、そのつばきでどろをつくり、そのどろをその人の目に塗って言われました「シロアムの池に行って洗いなさい」エルサレムに、シロアムの池がありました。地面から低い場所に、その池はありました。階段を下りていかねばなりません。それは目の不自由な人にとって危険なことでした。しかし、この人はイエスさまの言われたとおりにしました。彼はシロアムの池に行って目を洗いました。すると、見えるようになったのです。目が見えるということはさいわいなことです 

私たちの体には五つの感覚が備えられています。触覚、嗅覚、味覚、聴覚、そして、目が見えることによる視覚です。百聞は一見に如かずとあるとおり、うわさで聞いていたことが、目で見ることにより、みんなわかるようになる。それぐらい見ることによる情報は多くのことを、私たちに教えてくれます。シバの女王が言いました「わたしが国であなたの事と、あなたの知恵について聞いたことは真実でした。しかし、わたしがきて目に見るまでは、その言葉を信じませんでしたが、今見るとその半分もわたしは知らされていなかったのです。あなたの知恵と繁栄はわたしが聞いたうわさにまさっています」(列王紀上10:6)この人はパリサイ人の所へ連れていかれました。彼の上に行われた神のみわざが、多くの人に明らかにになるために、事は大きくなっていきました。パリサイ人は「どうして見えるようになったのか」と尋ねます。イエスさまが、そうしてくださったということがわかると、その人は安息日を破ったのだから罪人だと言いました。彼は答えて言いました「あのかたが罪人であるかどうか、わたしは知りません。ただ一つのことだけ知っています。わたしは目が見えませんでしたが、今は見えるということです」この言葉こそが真実です。何事もおかすことのできない証言です。私たちもこの人と同じように、神さまの世界について何もわからない者でした。しかし、イエスさまを信じるようになって、少しは神さまのことがわかるようになりました。見えるようになったのです。神さまは私たちに言われます「あなたは何が見えますか」。