2024、3、3      受難節第3主日礼拝        牧師 川﨑善三

「受難の予告」                       ヨハネ6:52~69

パンの奇跡を行われたイエスさまの所に、群衆は殺到しました。そして、カペナウムにおられたイエスさまの所に、人々はやってきました。イエスさまは言われました「よくよくあなたがたに言っておく。あなたがたがわたしを尋ねてきているのは、しるしを見たためではなく、パンを食べて満腹したからである」(ヨハネ6:26)彼らは、肉の糧を求めていました。この地上における生活の中での祝福を求めていたのです。しかし、イエスさまが私たちに与えようとしておられたものは、霊の糧でした。今日も、世の人々は肉の糧を求めています。衣食の問題、生活の問題の解決を求めているのです。            その事に対して、イエスさまは何を求めるべきかを話そうとされました。「よくよく言っておく。天からのパンをあなたがたに与えたのは、モーセではない。天からのまことのパンをあなたがたに与えるのは、わたしの父なのである」イエスさまは、モーセに率いられてエジプトを出た人々が荒野で与えられたパン、すなわちマナのことを話し出されました。あなたがたは、モーセは偉かった、彼が人々に食べ物を与えてくれたと言っているが、「天からのパンをあなたがたに与えたのは、わたしの父なのである」とイエスさまは言われました。私たちは、人を見てしまいます。しかし、本当に見なければいけないのは、神さまです。神さまがどのようなお気持ちで、天からの食べ物を与えてくださったかを悟るべきです。そして、「わたしは天から下ってきたパンである」と言われたので、人々はつまずき、つぶやき始めました。つぶやくと言うことは、イエスさまの言葉に対する不満に基づく不信であり、非難であります。人々はこう言いました「わたしはこの人のことを知っている。この人はヨセフの息子ではないか。その母はマリヤで、その兄弟たちも知っている」この人々は、イエスさまの出自や出身については知っていたでしょう。しかし、イエスさまが神からつかわされた御方、救い主キリストであると言うことを信じることができなかったのです。「わたしは命のパンである。天から下ってきたパンを食べる人は、決して死ぬことはない。わたしは天から下ってきた生きたパンである。それを食べる者は、いつまでも生きるであろう」イエスさまは、自分をパンであると言われ、そのパンを食べる人は永遠の命を与えられ、いつまでも生きることができると言われたのです。

「よくよく言っておく。人の子の肉を食べず、またその血を飲まなければ、あなたがたの内に命はない。わたしの肉を食べ、わたしの血を飲む者には、永遠の命があり、わたしはその人を終りの日によみがえらせるであろう」(ヨハネ6:53)イエスさまの肉を食べ、血を飲むということは、イエスさまの十字架の贖いを信じるという事です。そして、イエスさまとひとつになるという事です。キリストの肉と血とを味わうとき、その命にあずかることができるのです。イエスさまがよみがえられたように、私たちもよみがえって永遠の命をいただくことができるのです。イエスさまは今日も、わたしの肉を食べ、わたしの血を飲みなさいと言われます。