2024、5、26      聖霊降臨節第2主日       牧師 川﨑善三

「主の御声」                         イザヤ6:1~8

イザヤ書は、キリスト預言の宝庫であります。彼は、希望の預言者と言われ、イスラエルの民に慰めと望みを与えました。しかし、イザヤが最初からそのような、民に希望を与える預言者であつたかと言うと、そうではありません。彼の預言は、イスラエルの民の罪を激しく糾弾するものでした。「天よ、聞け、地よ、耳を傾けよ、主が次のように語られたから『わたしは子を養い育てた、しかし彼らはわたしにそむいた。牛はその飼主を知り、ろばはその主人のまぐさおけを知る。しかしイスラエルは知らず、わが民は悟らない』」

(イザヤ1:2、3)イザヤは、イスラエルの四人の王に仕えました。イザヤは、他の預言者たちが、そうであったように、イスラエルの罪を、あからさまに非難し、あなたがたが悔い改めないならば、神はあなたがたを審かれると預言しました。彼が活動していた頃、北王国はアッスリヤに滅ぼされてしまいます。ですから、神のさばきは絵空事ではなかったのです。南のユダ王国にとってもアッスリヤの脅威が、目の前に迫ってきていました。イザヤは、審きを預言しました。ところが、彼自身が全く変えられてしまうと言う体験を、イザヤ六章ですることになりました。「ウジヤ王の死んだ年、わたしは主が高くあげられたみくらに座し、その衣のすそが神殿に満ちているのを見た」(イザヤ6:1)神さまのまわりには、六つの翼をもった天の使が飛びかけて言いました「聖なるかな、聖なるかな、聖なるかな、万軍の主、その栄光は全地に満つ」イザヤは、その時自分の真相と言うものを知らされて言いました。「わざわいなるかな、わたしは滅びるばかりだ。」聖なる御方に出会ったとき、わたしたちは自分がどんなに罪深い者であるかがわかってきます。ペテロに大漁という出来事を、目にしたとき言いました。「主よ、わたしから離れてください。わたしは罪深い者です」(ルカ5:8)すると、天の使のひとりが、火ばしをもって祭壇の上に燃えさかる炭を手にたずさえ、イザヤのところに飛んできて、イザヤの口にふれて言いました「見よ、これがあなたのくちびるに触れたので、あなたの悪は除かれ、あなたの罪はゆるされた」この体験が、イザヤの救いの体験となりました。そして、主の御声が聞こえました。「わたしはだれをつかわそうか。だれがわれわれのために行くだろうか」神は、モーセに言われました「わたしが、あなたをエジプトにつかわそう」しかし、ここでは、イザヤの自発的な応答を期待して、御声を聞かせられたと言うことができます。イザヤは言います「ここにわたしがおります。わたしをおつかわしください。」今日も、私たちに御声が聞こえてまいります。「わたしはだれをつかわそうか。だれがわれわれのために行くだろうか」