2024、6、16      聖霊降臨節第5主日        牧師 川﨑善三

「思いわずらいからの解放」               マタイ6:25~34

 山上の垂訓は、天国に招き入れられる人々が、この地上にあって、どのような生き方をするべきかと言うかを、主が教えて下さったところであります。「何を食べようか、何を飲もうかと、自分のからだのことで思いわずらうな」(マタイ6:25)イエスさまは、食べることに気を使うなと言っておられるのではありません。思いわずらうなと言っておられるのです。思いわずらうことが、罪なのです。マルタとマリヤの話を思い出します。(ルカ10:38~42)マルタとマリヤは、同じ思いをもって、イエスさまを御迎えしました。マルタは、イエスさまを喜ばせたいと思い、接待に一生懸命でした。そして、心を取り乱して思いわずらってしまいました。本質を見失ってしまいました。イエスさまを喜ばせたいという思いから外れて、自分の納得がいくような接待をするために、あれもこれもと欲張りすぎたのです。いわば、彼女は完璧主義者であったということです。世の中には、マルタさんのような人が、たくさんいます。私たちは、100点満点の成績をおさめるべきではありません。それを目指して、大切なものを見失った人が、たくさんいます。最高学府で、よい成績をおさめエリート官僚の道を歩みはじめて、いつしか横柄で高慢になっていった人がどれだけ多くいることでしようか。私たちは、100点満点の成績をとる必要はありません。及第点をとればそれで合格なのです。イエスさまは、私たちに「思いわずらうな」と言われます。「空の鳥を見なさい。野の花を見なさい。あなたがたの天の父は彼らを養っていて下さる。あなたがたは彼らよりも、はるかにすぐれた者ではないか」私たち人間と、空の鳥あるいは野の花と比べられるものでしょうか。野の花と人間とは、同じではなく、全くの別物です。しかし、ひとつの点で、人間と空の鳥、野の花は一緒であると、イエスさまは教えて下さいました。ともに、神さまがお造りになったものであると言うことです。「空の鳥を見るがよい。まくことも、刈ることもせず、倉に取りいれることもしない。それだのに、あなたがたの天の父は彼らを養っていてくださる」神さまは、私たちを造って下さったのですから、私たちの命について重大な関心を持っていて下さいます。神さまのおゆるしがなければ、一羽のすずめさえも地に落ちることはないと主は言われるのです。イエスさまは、もっと大事なものに関心を持ちなさいと言われます。「まず神の国と神の義とを求めなさい」私たちは何に関心を持つべきであるかを、主は教えて下さいます。それは、神さまのことについて、関心を持ちなさいと言うことです。「わたしたちは、見えるものにではなく見えないものに目を注ぐ。見えるものは一時的であり、見えないものは永遠につづくのである」(第2コリント4:28)この世にある朽ちるもののために働くのではなく、目にみえない永遠の世界のあることを信じて、なくならないもののために働きましょう。