2024、10、13      聖霊降臨節第22主日礼拝     牧師 川﨑善三

「義の実は平和を造り出す」                 ヤコブ3:1~18

ヤコブの手紙は、ルターによれば、わらの書と言われた時がありました。それは、信仰よりも行いを強調しているかのように思われたからです。口では、信仰深いことを言っても、箸ひとつ動かさないようなクリスチャンがいたとしたら、それは、たちまち、ヤコブの手紙の言うクリスチャンだと言うことになります。そもそも、信仰と言うものは、外に現れてはじめて、その人が何を信じているかがわかるものであります。ある時、イエスさまの所に中風の人が戸板に乗せられて運ばれてきました。イエスさまの周りには、大勢の人が居て、その人をそば近くまで連れていくことができません。そこで、中風の人を運んできた人々は、屋根にのぼり、穴をあけ、中風の人を寝かせたまま、イエスさまの前につりおろしました。「イエスは、彼らの信仰を見て、中風の者に『子よ、あなたの罪はゆるされた』と言われました」(マルコ2:5)彼らは、イエスさまならばこの人の病を癒して下さると信じてそのような行動に出ました。これが、彼らの目に見える信仰であります。ヤコブの手紙は、主の兄弟ヤコブが書いたものです。彼はこの3章でユダヤ人クリスチャンにこう言いました「わたしの兄弟たちよ、あなたがたのうち多くの者は、教師にならないがよい」教師として、人の前に立つことは神の召しがなければ立つことができません。献身して、神学校に行く人たちに問われるのは、この点であります。「わたしたち教師は、他の人たちよりも、もっときびしいさばきを受けることが、よくわかっているからである」教える立場にある人の責任は、重いということであります。教師であるために、必要なものは何かであります。それは、「舌を制すること」と「上からの知恵」が必要であります。舌を制するということを、色々なたとえをもって説明しています。舌は、馬を御するために用いるくつわのようなものである。また、大きな船を思いのままに運転するかじのようなものである。舌は火であり、舌は泉であるとたとえられています。私たちは、しばしば言葉によって、人を傷つけたり、迷惑をかけることがあります。この事を神さまに告白し、悔改めましょう。「主よ、わが口に門守を置いて、わがくちびるの戸を守ってください」(詩篇141:3)「むしろ、御霊に満たされて、詩とさんびと霊の歌とをもって語りあい、主にむかって、心からさんびの歌をうたいなさい」(エペソ5:18、19)私たちの心が、いつも聖霊に満たされているならば、人をのろう言葉が出てくるはずはありません。神さまの愛がわかるならば、人を愛することが、どんなに神を喜ばせることであるかがわかってまいります。「キリストは罪を犯さず、その口には偽りがなかった」(Iペテロ2:22)さあ、果たして、私たちはどうでしょうか。