2025、1、19 降誕節第4主日礼 牧師 川﨑善三
「権威ある新しい教え」 マルコ1:16~28
イエス・キリストの宣教活動は、ガリラヤから始まりました。そこは、ユダヤの国の北、ガリラヤ湖の周辺がその対象地域でした。「さて、イエスはガリラヤの海べを歩いて行かれ、シモンとシモンの兄弟アンデレとが海で網を打っているのを、ごらんになった」(マルコ1:16)主イエスが海べを歩いておられる様子を想像してみましょう。いかにも、牧歌的で、春の海の陽光さんさんたる浜べを想像するかも知れません。しかし、浜べは、歩きにくい所です。創世記のヤコブの話にありますように、「その歩み、はかどらざりき」(創世記32:31)が本当です。イエスさまの伝道の最初の歩みも、すべてが順調であったと言えないかも知れません。私たちも、その人生のそれぞれの段階において、その歩みはいつも同じではありません。青年期には青年の歩み、壮年期には壮年の歩み、老人期には老人の歩みがあると言えます。そして、何よりも、すべてがうまく運んでいると言う時が幸せであるとは言えません。「その歩み、はかどらざりき」と言うような状況の時が、本当は、一番幸せな時期であったりするものであります。イエスさまは、この時、4人の弟子を選ばれました。彼らは、漁師であり、無学な、ただの人でした。イエスさまは、そんな彼らをお選びになりました。それは、どんな人間でも、神のみまえに誇ることがないためでした。磨き出される宝石の原石のような人たちが選ばれました。「あなたがたがわたしを選んだのではない。わたしがあなたがたを選んだのである」(ヨハネ15:16)教会では、社会的に偉い人も、そうでない人も、神さまの前ではみんな同じあると言うことです。むしろ、自分の弱さ、無学さを知って、神さまのまえにへりくだっている人こそが、本当に偉いのです。イエスさまは、カペナウムに帰られ、安息日に会堂に入って教えられました。会堂は、ユダヤ人の集会所であり、礼拝をささげる所でした。そこで、ラビ(教師)は自由に聖書の教えを語ることを許されていました。イエスさまは、まずユダヤ人を教えることに、全力を注がれました。人々は、イエスさまから聖書を通して、神の教えを聞きました。人々は、その教えに驚きました。ユダヤ人は、聖書の民と言われるような人々ですから、聖書の教えをいろいろな人から聞いていました。しかし、彼らに聞いていた教えは、枝葉末節的な、どうでもいいような、重箱のすみをつつくような教えばかりを聞いていたと言えます。それに対して、イエスさまの教えは違っていました。それは、聞く人々の心を変えるものでした。聞く人々の生き方を変えるものでした。それを聞いた人々が、明日から、いや今日からイエスさまが教えて下さったように、自分もやってみようという気を起こさせるものでした。イエスさまは、「ことばとわざ」において、力ある方でした。ですから、会堂でイエスさまの教えを聞いた人々は、「律法学者たちのようではなく、権威ある者のように教えられた」と言うことがわかりました。イエスさまの教えは、今日も「権威ある新しい教え」です。私たちも、イエスさまの云われる通りにやってみたら、何が起こるかを見せていただこうではありませんか。
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