2025、2、9    降誕節第7主日礼拝    牧師 川﨑善三「イエスの譬」                    マルコ4:10~34

 ひとりの人の人格を、正確に言い表すことは不可能であります。人は、良い所、悪い所、あいまいな所、その人自身も知ることのないような潜在意識の中にある自分と言ったような多面性を持っています。ユダヤ人は、世界中の様々な民族、部族、諸族の中で最も、人間と言うものについての洞察力のすぐれた民族であると言えますが、そのような良い面を持っている彼らに、神さまはご自身の存在を顕わされたのだと言うことができます。旧約聖書には、神の声を聞いた、神さまにお会いした、神さまのお導きを受けたと言う人が、たくさん出てまいります。ノアと言う人に、神は語りかけて言われました「わたしは、すべての人を絶やそうと決心した。彼らは地を暴虐で満たしたから、わたしは彼らを地とともに滅ぼそう。あなたは、いとすぎの木で箱舟をつくり、その中に入りなさい。あなたとあなたの家族は箱舟に入って救われるであろう」ノアは、神の御声を信じて、滅亡から救われました。神さまのお言葉を信じると言うことは、私たちの命にかかわる大事なことであります。イエスさまは、「神の国」の奥義を語られました。「神の国は、ある人が地に種をまくようなものである。夜昼、寝起きしている間に、種は芽を出して育っていくが、どうしてそうなるのか、その人は知らない」(マルコ4:26、27)種は、土があり、適度な水分と太陽の光があるならば、芽を出して育っていきます。それと同じように、神の国のもとになる種は、種そのものに力があります。種そのものに力がありますから、順序に従って段階的に成長していきます。人の力によってではありません。種そのものに力があるのです。ですから、イエスさまはその種を蒔き続けられたのです。弟子たちも、イエスさまからその種を受け、それを蒔いたのです。そして、私たちもその種を蒔き続けるのであります。イエスさまは、譬えで神の国のお話をして下さいました。主が、譬えで話された理由が、いくつかあります。①譬えは、どんな無学な人であっても、譬えだけは心にとめておく事ができます。②聞く人の力に応じて、その譬えの持つ意味を浅くもし、また深めることもできます。③譬え、そのものは単純なものでありますが、その譬えに含まれている真理は、無限の広がりを持っています。④譬えが単純明快であればあるほど、正確に後の代の人々に語り伝えられていくと言う事です。主イエスは、神の国のたとえを、あなたがたもより多くの人に語りついで下さいと言われます。「ますの下や寝台の下に置くために、あかりを持ってくることがあろうか。燭台の上に置くためではないか」(マルコ4:21)まことの光であるイエスさまに照らされている私たちは、世の光です。その光を輝かし、神の言を宣べ伝えなさいと主は言われます。