2025、2、16        降誕節第8主日礼拝     牧師 川﨑善三

「嵐を静めるキリスト」          マルコ4:35~41

 聖書に出てくる色々な出来事について、私たちが信じることのできないことのひとつに、イエスさまが奇跡を行われたという事があります。現代の科学文明万能の時代に生きる、私たちは奇跡については非常に冷淡であり、無理解、無関心であります。私たちは、目に見えるものだけを信じて、目に見えないものを信じようとしないのです。しかし、聖書はこう言っています、「目に見えるものは一時的であり、目に見えないものは永遠に続くのである」(Ⅱコリント4:18)教会で、聖書の話を聞くということは、どういう事でしょうか。それは、目に見えない世界があると言う事、目に見えない神がおられるという事、そして、イエス・キリストは子なる神であって、私たちを救うためにこの世にお生まれになったと言う事を、聖書を通して知り、信じるために、話を聞くのです。教会での話は、教養のために聞くのではありません。ただ、賢くなるためのものでしたら、世の中にはそれなりの専門の学者がおられますし、そうした方々のお話は詳しく勉強になる事柄が、たくさんあるはずです。しかし、そうしたお話によって、私たちの心は満足するのでしようか。悩みや問題の解決のための知識というようなものが、教会以外の所にあると言えるのでしょうか。教会以外に、聖書以外に、そしてイエス・キリスト以外に、私たちを救い、慰め、励まし、力づけてくださる御方はひとりもおられません。「この人による以外に救いはない。わたしたちを救いうる名は、これを別にしては、天下のだれにも与えられていないからである」(使徒4:12)という事ができます。それでは、そのようなイエス・キリストが、どんな事をなさったかと言う事を見てみましょう。主イエスは、群衆にいろいろお話なさった後、弟子たちに「向こう岸へ渡ろう」と言われました。主は、群衆を避けて静かな場所へ行き、休息しようとされたのです。イエスと弟子たち一行は、舟に乗り込んでガリラヤ湖に漕ぎ出しました。すると、激しい突風が起こり、波が舟の中に打ち込んできて、舟に満ち、沈みそうになりました。ガリラヤ湖の北に、ヘルモン山という高い山がありました。その山から激しい風が吹き下りてくると言うことが、たびたびありました。「吹くからに、秋の草木のしおるれば、むべ山風を嵐というらん」とありますように、山から吹いてくる突風が、嵐であります。弟子たちは恐怖におびえ、叫びだしました。ところが、イエスさまは舳の方でまくらをして眠っておられました。弟子たちはイエスさまをおこして「先生、私たちが、おぼれ死んでもおかまいにならないのですか」と言いました。すると、主は起きあがって風をしかり、海にむかって「静まれ、黙れ」と言われると、風はやんで、大なぎになりました。そして、主は弟子たちに言われました「なぜ、そんなにこわがるのか。どうして信仰がないのか」「信仰がなくては、神に喜ばれることはできない。なぜなら、神に来る者は、神のいますことと、ご自身を求める者に報いて下さることとを必ず信じるはずだからである」(ヘブル11:6)私たちの心の中に、嵐が吹きすさむ時、イエスさま助けてください、嵐を静めてくださいとお願いいたしましょう。