2025、3、2      降誕節第10主日礼拝         牧師 川﨑善三

「悪と戦うキリスト」                    マルコ3:20~30

 主イエスはガリラヤを出てヨルダン川に現れ、ヨハネからバプテスマを受けられました。そのとき、水から上がられてお祈りをしておられると、天が開け神の御霊がはとのように、イエスの上に下られて、声がありました。「これは、わたしの愛する子、わたしの心にかなう者である」この時から、主イエスの公生涯が始まりました。このあと、すぐにキリストはサタンの誘惑をお受けになったと言う、このタイミングが重要であります。主イエスが、ご自分が神の愛する子であることを確認し、上よりの力に満たされたときに、サタンの誘惑かやってきました。これは、私たちにとっても大きな教訓であると言えます。霊的に引き上げられ、信仰的に強くされた、そのすぐあとに試練や誘惑がやってきます。この世的に成功をおさめ、それまでと違う権限が加えられた時などに、それまでと違うレベルの誘惑がやってきます。ある中国の伝道者が、御霊にみたされ、力強い活動をしていました。ある時、篤志家が現れて、彼に多額の献金をしました。伝道者は、最初は喜んでいました。ところが、その人が帰って、しばらくしたあと、伝道者は心に平安がなくなってしまいました。そして、主の前に静まり、心を探ってみると、その献金のことを思い出しました。早速、くだんの篤志家にお金を返しに行きました。返して帰ってくると、彼は前の時のように、心の平安を取り戻して、また主の働きに邁進していきました。恵まれている時に、誘惑がやってきます。サタンは、三つの誘惑をもって攻撃してきました。第一は食べることについての誘惑でした。「もし、あなたが神の子であるなら、これらの石がパンになるように命じてごらんなさい」肉体の飢えを軽んじることはできません。エサウは、一杯のあつもののために、長子の特権をヤコブに売り渡しました。ひとつのパンのために、大きな罪をしてしまう人がいます。私たちは裕福になることも、貧しくなることも、共に神に対して罪を犯す可能性のあることを知っています。「わたしは二つのことをあなたに求めます。うそ、偽りをわたしから遠ざけ、貧しくもなく、また富みもせず、ただなくてならぬ食物でわたしを養ってください。飽き足りて、あなたを知らないといい、『主とはだれか』と言うことのないため、また貧しくて盗みをし、わたしの神の名を汚すことのないためです」(箴言7:7~9)主イエスは、サタンに答えて言われます。「『人はパンだけで生きるものではなく、神の口から出る一つ一つの言で生きるものである』と書いてある」人は、パンが必要でないと言われたわけではありません。「パンだけで生きるものではない」と言われたのです。パンだけで生きるのではなく、私たちの心が養なわれなければ生きるということにはならないと言われたのです。誘惑は、だれもが経験することです。しかし、主イエスは、サタンの誘惑にことごとく勝利されました。主イエスのように、その時その時に応じて、御言をもって、誘惑に勝つことができるよう、みことばを蓄えましょう。