2025、3、9      受難節第1主日礼拝       牧師 川﨑善三

「主の変貌」                        マルコ9:3~8

 イエス・キリストの弟子のうち、ペテロ、ヤコブ、ヨハネの三人は、主が大事なことを   お示しになろうとするとき、その現場に立ち会う機会がたびたびありました。会堂司ヤイロの娘が死んだ時も、その少女の体が横たえられている部屋に、三人は連れていかれました。奥義とか、論拠皆伝だとか、その本質的な部分については、選ばれた人だけが教えられる、悟りが与えられるということは事実であります。また、そうした奥義を示された人には、特別な責任というものが生じることを憶えておかなければなりません。さて、ピリポ・カイザリヤ地方で、イエスさまは弟子たちに尋ねられました。「あなたがたは、わたしをだれと言うか」ペテロが答えて言いました「あなたこそキリストです」主は、ペテロの答をどんなに喜ばれたことでしょうか。しかし、この事がわかったならば迫害が起こることを、主は知っておられました。そして、この事をだれにも言ってはいけないと彼らを戒められました。そして、弟子たちだけに、キリストは多くの苦しみを受け、長老、祭司長、律法学者たちに捨てられ、また殺され、そして、三日の後によみがえることを教え始められました。そうした事があったのち、六日ほどして、イエスさまはペテロ、ヤコブ、ヨハネだけを連れて高い山に登られました。十字架は、弟子たちにとって、あり得ない出来事、あってほしくない出来事でありましたが、イエスさまにとつては現実的な出来事でありました。主は、この苦難に対しての備えが必要と悟られて、祈るために山に登られたのです。イエスさまが祈っておられる様子は、実におごそかでありました。三人がイエスさまを見つめていると、主のお姿が変わり始めました。最初に、その衣が真白く輝き始めました。そして、そのお顔も光り輝くお顔となって、今まで見たことのないようなイエスさまが、弟子たちの目の前に立っていらっしゃったのです。そして、イエスさまだけではない、エリヤとモーセが彼らの前に現れて、イエスさまと語り始めました。モーセは律法の代表者、エリヤは予言の代表者、ふたりが現れたということは、イエスさまが旧約の成就としてのキリストを証しするものであります。ペテロは、言いました「先生、わたしたちがここにいることは、すばらしいことです。それで、私たちは小屋を三つ建てましょう。一つはあなたのために、一つはモーセのために、一つはエリヤのために」すると、雲がわき起こって彼らをおおいました。そして、雲の中から声がありました。「これはわたしの愛する子である。これに聞け」三人の弟子たちがふと気が付くと、雲が晴れてまわりを見回しましたが、エリヤとモーセの姿はすでにありません。「弟子たち急ぎ見回すに、イエスと我らのほか、誰をも見えざりき」(文語訳)イエスの他、誰をも見えざりき、イエスさまだけが、わたしの救い主です。イエスさまだけが、わたしの助け主です。イエスさまだけが、わたしの慰め主です。人を見ては、つまずきます。人に頼っては、裏切られます。私たちは、人をあてにすることはできません。あてにできるのはイエスさまだけです。「あなたこそキリストです」との信仰をもって、イエスさまに聞き従う日々を送らせていただきたいと思います。