2025、3、23 受難節第3主日礼拝 牧師 川﨑善三
「神の賜る杯」 マルコ14:22~36
救い主イエス・キリストが、この地上につかわされた目的を実現する大事な時が、いよいよ、やって来ました。ユダヤ人の過越の祭が始まろうとしている時に、イエスさまは過越の祭において神に捧げられる小羊のように、自らの体をささげられたのであります。イエスさまが、ヨルダン川にあらわれて、ヨハネからバプテスマをお受けになられた時、ヨハネは主が自分の方に歩いてこられるのを見て言いました「見よ、世の罪を取り除く神の小羊」イエスさまは、聖書のはじめに、人間が罪を犯したその時から、神は人間を罪から救うために「女のすえ」からお生まれになると預言されたメシヤ(救い主)であります。主は、ご自分が十字架につけられて死ぬと言う、具体的な出来事をすでに予知しておられました。「わたしは苦しみを受ける前に、あなたがたとこの過越の食事をしようと、切に望んでいた」(ルカ22:15)イエス・キリストが、十字架におかかりになる前日、木曜の夜に、使徒たちと最後の晩餐の時を持とうとしておられました。今回が、最後のときでした。食卓には、過越の祭の際に食する食べ物が準備されていました。「その夜、小羊の肉を火に焼いて、種入れぬパンと苦菜を添えて食べなければならない。生でも水で煮ても食べてはならない。火に焼いて、その頭を足と内臓と共に食べなければならない」(出エジプト12:8、9)そして、イエスさまはパンとぶどう酒をもって、十字架の死がどういう意味を持つものかと言うことを、弟子たちに示されました。それは、新しい契約のしるしでした。イエス・キリストの十字架のあがないを信じて、その死を表すパンとぶどう酒にあずかる者は、罪がゆるされて永遠の命が与えられるという契約でありました。イエスさまが、最後の晩餐の時を、切に望んでおられたのは、このためでありました。私たちが十字架を信じるため、神の御国が来る時まで、これを守り続けなさいと主は言われました。そして、その食事を終えて、ゲッセマネの園に向かわれたのであります。園の着くと、ペテロ、ヤコブ、ヨハネを連れて進んでいかれ、恐れおののき、また悩みはじめて言われました「わたしは悲しみのあまり、死ぬほどである。ここに待っていて、目を覚ましていなさい」イエスさまには、このあと数時間のちの十字架の出来事が見えておられました。そして、恐ろしい光景の中で、最も悲しむべき瞬間を目の当たりにしておられました。「そして、三時に、イエスは大声で『エロイ、エロイ、ラマ、サバクタニ』と叫ばれた。それは『わが神、わが神、どうしてわたしをお見捨てになったのですか』と言う意味である」(マルコ15:33、34)イエスさまは、神に捨てられ、神の御顔を見失われたのです。イエスさまは、この光景を見ておられました。そして、こう祈られたのです。「どうか、この杯をわたしから取りのけてください。しかし、わたしの思いではなく、みこころのままになさってください」真にキリスト者が祈る祈りの最高の水準が、示されています。それは、初めから、有無を言わさぬ機械的な服従ではありません。神さまとの間に、霊の親密なお交わりの中にあっての服従こそが、真のお従いであると言えます。このような苦しい心中から発せられた祈りを土台として、主の十字架があることを感謝いたしましょう。
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