2025、5、11 復活節第4主日礼拝 牧師 川﨑善三
「とりなしの祈り」 創世記18:22~33
歴史とは、記録によって後世に伝わります。もし、記録が残っていなければ忘れ去られてしまった人々、国々、町々があるのも事実であります。ローマの時代、ポンペイという町がありました。しかし、その町は、ベスビオ火山の噴火によって町ごと覆われ、生き埋めのような状態で滅んでしまいました。紀元79年の噴火であります。ローマの記録にとどめられていたので、町は1860年ごろから発掘され、石で舗装された道路、神殿、大小二つの円形劇場、民家、商店、職人の仕事場などが、2000年前の形のままで発掘されました。1997年には世界文化遺産に登録されました。もし、歴史上の記録が残っていなかったら、人々から忘れ去られてしまった国々や町々があるということは事実であります。そのようなに考えると、もし創世記の記録が残っていなかったら、ソドムとゴモラの町の存在は人類の記憶に残らなかったと言うことになります。しかし、その町の存在とその最後について、聖書ははっきりと記録しています。「主はマムレのテレビンの木のかたわらでアブラハムに現れられた。それは昼の暑いころで、彼は天幕の入口にすわっていた」(創世記18:1)アブラハムが、99歳の年のある日の昼下がり、彼は天幕の入口にすわっていました。アブラハムが目を上げて見ると、三人の人がアブラハムに向かって立っていました。その当時の風習として、旅人をもてなすことが人の道にかなうことでしたので、アブラハムはこの人達を粗末にあつかうようなことはありませんでした。アブラハムは言いました「わが主よ、もしわたしがあなたの前に恵みを得ているなら、どうぞしもべを通り過ごさないでください」神が人間の姿をとって、アブラハムの所を訪れたのです。神はアブラハムに約束されました「来年の春、わたしは必ずあなたの所に帰ってきましょう。その時、あなたの妻サラには男の子が生まれているでしょう」神さまは、アブラハムの身から出るものがあとつぎとなると言われましたが、そのとおりにしてくださいました。「神には、なんでもできないことはありません」三人の人は、アブラハムの天幕を離れてソドムの方に向かいました。アブラハムは、彼らを見送って途中まで一緒に行きました。神は言われました「わたしのしようとすることをアブラハムに隠しておいてよいであろうか。彼は大いなる国民となって、地のすべての民が、彼によって祝福を受けるようになる。そのような彼に、今からわたしのしようとすることを黙っていてよいであろうか」神は、これからソドムとゴモラの町にしようとする事を、アブラハムにあかされました。アブラハムは黙っていることはできませんでした。「ソドムの町に、50人の正しい人があったなら、その人々のためにゆるしてくださいますか」45人ならば、40人なら、30人、20人なら、10人ならと、アブラハムは執拗に訴えました。この姿は、救い主イエス・キリストの御姿そのままであります。「父よ、彼らをおゆるしください。彼らはなにをしているのか、わからずにいるのです」主なる神は、今日もアブラハムのような人を求めておられます。神の御前にあって、とりなす器を求めておられます。この主のご期待にそうことができる者になれますように。
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