2025、7、13 聖霊降臨節第6主日礼拝 牧師 川﨑善三
「神からの真理」 マルコ8:22~26
イエスさまがキリストなのかどうかが、当時の上流階級の人々には大きな関心事でありました。それは彼らが、イエスがキリストであると信じたいがゆえの理由ではなく、むしろ反対に、イエスはキリストではないと言うことを証明したいがゆえの関心事でありました。ユダヤ人の一般的な人々は、イエスがキリストであってほしいと言う願いを持っていましたが、イエスご自身はそれを明らかにされませんでした。「パリサイ人たちが出てきて、イエスを試みようとして議論をしかけ、天からのしるしを求めた」(マルコ8:11)パリサイ人、別名、律法学者と言われる人々、この人々は、救いは律法を守ることによって救われると信じていました。ユダヤ人の歴史を見る限り、彼らの言うことはそんなにまちがいではありませんでした。サムエルの時代以降、王政の時代が続いていく中でイスラエルの人々は律法を離れ、自分たちの思いのままの生き方をしていました。彼らは、神を神として崇めず、自分の思いのままにやりたい放題の生活をするようになりました。上は王様から下は奴隷の子に至るまで、暴虐と非道が行われていました。神は、彼らをご自分に立ち返らせるために、外の国々を用いて働きかけられましたが、彼らは悔改めず、とうとう滅ぼされてしまいました。その結果、ようやく、彼らの目がさめたということができます。そして、彼らは神に立ち返ろうとして、律法を守ることに熱心になっていきます。ところが、イエスさまの時代、律法を守ることが救いの大切な条件であるかのように考え始められました。これは大きな間違いであります。律法によっては救われないのです。恵みによってしか私たちは救われないのです。パリサイ人たちは、イエスに天からのしるしを求めました。イエスは答えて言われました「邪悪で不義な時代は、しるしを求める。しかし、ヨナのしるしのほかには、なんのしるしも与えられないであろう」(マタイ16:4)イエスさまがキリストであることを、決定的に証明するしるしは、十字架の死と復活です。この出来事こそが、イエスがキリストであることを示す、しるしであります。他の癒しに関して言えば、それは奇跡と呼ばれるものであり、神の憐みのご愛を現わす、神の恵みであり、恩寵の一部であり、それはイエスがキリストであることを証明する決定的なしるしでないと言うことであります。ベツサイダで現わされた奇跡の特徴は、目の不自由な人が、徐々に見えるようになったと言うことです。たちまち、見えるようになったバルテマイと言う人がいます。また、シロアムの池に行って洗いなさいと言われて、そのようにして見えるようになった人もいます。そして、この人は徐々に見えるようになりました。私たちの信仰においても、その事柄は真理であります。私たちは、イエスさまのことを始めから、よく知っているわけではありません。少しずつ、わかっていくのです。「わたしたちは、今は鏡に映して見るように、おぼろげに見ている」(Ⅰコリント13:12)私たちは、あまりに物事の真相が見えていないと言えます。しかし、イエスさまは御手をつけて明らかに見えるようにして下さいます。私たちはその時、感謝にあふれることでしょう。恵みの数々を見て。
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