2025、7、20      聖霊降臨節第7主日礼拝       牧師 川﨑善三

「不信仰な時代」                      マルコ9:14~24

 福音書はそれぞれ補いあい、また、聖書全体は、ひとつのことを証しするために補いあっています。ヨハネ福音書の中で、主イエスは、こう言われました「わたしを信じる者は、またわたしのしているわざをするであろう。そればかりか、もっと大きいわざをするであろう。わたしが父のみもとに行くからである」(ヨハネ14:12)イエスさまの弟子である者は、イエスさまが行われたと同じわざを行うことができると、主は言われたのです。使徒行伝では、ペテロとヨハネが「美しの門」のかたわらに置かれていた、足のきかない人を癒しました。パウロも、占いの霊につかれた女奴隷から、霊を追い出すと言う奇跡を行いました。ところが、弟子たちは、口をきけなくする霊にとりつかれている子どもを癒すことができませんでした。そんな弟子たちと律法学者、群衆たちが論じ合っているところに、イエスさまが来られました。イエスは尋ねられました「あなたがたは、なにを論じているのか」すると、口をきけなくする霊にとりつかれている、むすこの父親は答えました「先生、わたしのむすこをこちらに連れてきましたのは、彼を癒していただくためでした。お弟子たちにこの霊を追い出してくださるようにお願いしましたが、できませんでした」イエスさまは言われました「ああ、なんという不信仰な時代であろう」イエスは律法学者の不信仰を嘆かれました。弟子たちの不信仰を嘆かれました。そして、群衆の不信仰を嘆かれました。神に信頼しない、神を信じない時代は、すべての人が不信仰に陥っていると言えます。ダビデがゴリアテと戦ったときも、ダビデ以外の人は、だれひとり、ゴリアテに勝てるとは思っていませんでした。ダビデは言いました「ししのつめ、くまのつめから、わたしを救い出された主は、またわたしを、このペリシテびとの手から救い出されるでしょう」ダビデは、自分の能力を信じていたのではありません。その石なげの技量を信じていたのでもありません。生ける神、万軍の主を信じて戦ったのであります。    霊にとりつかれている息子の父親は、言いました「もしできますれば、わたしどもをあわれんでお助けください」イエスさまは、彼に言われました「もしできればと言うのか。信じるものには、どんな事でもできる」できると信じるのではなく、信じればできると言われたのです。父なる神と御子イエス・キリストを信じるならば、できると言われたのです。父親は、ここで、ひとつ上の世界にジャンプしました。「信じます」そして、彼が信仰とはなにかを悟った言葉が出てきました。「不信仰なわたしを、お助けください」“わが信なきを助けたまへ”(元訳聖書)私たちには、信仰の“し”の字もないのです。私たちには、信仰はどこを探しても見当たらないのです。ですから、信仰は神さまから与えられなければ、私たちのうちには宿らないのです。主イエスに対する信仰、主イエスに依り頼む祈り。ただ、主におゆだねする心を、今日、私たちは与えられたいと思います。