2025、8、10      聖霊降臨節第10主日礼拝      牧師 川﨑善三

「神の家族」                           エペソ2:19

人が生きていくための力の源は、どこから来るのでしょうか。「わたしが与える水を飲む者は、いつまでも、かわくことがないばかりか、わたしが与える水は、その人のうちで泉となり、永遠の命に至る水が、わきあがるであろう」(ヨハネ4:14)この水は、イエス・キリストご自身です。御子を持つものは、永遠の命を持っています。それは、こんこんと流れ出る泉のように流れるものであり、絶えてなくなってしまうものではありません。バックストン先生は「ナイヤガラの滝は、今日も豊かな水量と共にごうごうと音を立てて、流れ落ちています。ご聖霊の働きも同様であります」と言われました。神さまの働きは、昔も今も、信じる者には力があり、生き、働いていて下さいます。「わたしが与える水は、その人のうちで泉となり、わきあがる」と主は言われました。さて、人々はイエスにさわっていただくために、幼な子をみもとに連れてきました。イエスさまが、その手でさわる事によって、多くの病人が癒されました。重い皮膚病の人が癒されて、きよくなり、神殿の祭司の証明を得て、ふつうの生活にもどることができました。人々は、イエスさまの手に特別の祝福があるかのように思っていたからです。幼な子を主のみもとに連れてきたのは、だれでしょうか。その母親たちであります。その時代のユダヤ人の世界では、女、子どもは数のうちに入っていませんでした。「パンを食べた者は、男五千人であった」(マルコ6:44)とあるように、男社会であり、女、子どもは数に数えられず、この時も母親たちは除外されていたのです。弟子たちは、先生をそんなことに煩わせてはいけないと思って、幼な子をイエスさまのところに連れてこようとする、母親たちをたしなめました。それを見て、イエスは憤り、彼らに言われました「幼な子らをわたしの所に来るままにしておきなさい。神の国はこのような者の国である」(マルコ10:14)イエスさまが憤られる、怒りをもよおされると言うことは、多くありません。憤り、それは激しい感情であると言えます。幼な子をイエスさまのもとに連れてくることを拒むということが、イエスさまを怒らせるものであることを知って、弟子たちは驚きました。そして、この時の出来事を、しっかりと憶えることになりました。イエスさまは、女も、子どもも、異邦人も、老人も若者も、みんな、神の家族として受け入れ、祝福して下さいます。「あなたがたは、もはや異国人でも宿り人でもなく、聖徒たちと同じ国籍の者であり、神の家族なのである」(エペソ2:19)私たち、イエス・キリストを信じる者は、皆、神の家族なのであります。ユダヤ人社会では、数に数えられることのなかった女性も、幼な子も、みんな、神の祝福を受けることのできる、かけがえのない存在であります。主イエス・キリストは、今日も「幼な子らを、わたしのもとに来るままにしておきなさい」と言われます。幼な子のようになって、素直な心でもって、主のみもとに近づきましょう。