2025、8、17 聖霊降臨節第11主日礼拝 牧師 川﨑善三
「何をしてほしいのか」 マルコ10:46~52
イエスさまが、エリコの町から出かけられたとき、この出来事が起こりました。バルテマイという目の不自由なこじきが、道ばたにすわっていました。ところが、彼はナザレのイエスが来られたと聞いて、叫び始めました。古代において、眼病は一般的な病気でした。衛生的にも、不衛生な時代ですので、汚れた手で目をさわれば、たちまち、眼病を患って失明するケースも、よくあったわけです。簡単な眼病が治療するのが遅くなり、失明する場合もありました。眼病は、一般的な病いであると共に、なおりにくい病気のひとつでありました。バルテマイは、おおぜいの群衆のひとりからナザレのイエスが来られたと聞いて、「ダビデの子イエスよ、わたしをあわれんでください」と叫び始めました。人々はナザレのイエスだと言っているのに、彼はダビデの子イエスと叫んだのです。これは、バルテマイがイエスさまをメシヤだと信じていたことの証です。彼が、恵みを受けるのに、この信仰が必要でした。この事は、私たちにも言えることです。神の恵みを受けるには、信仰が必要です。イエスはキリストという信仰がなければ、神さまは、私たちに答えることができません。私たちクリスチャンに必要なことは、まず第一に信じることです。そして、バルテマイは、イエスさまが救い主メシヤだという信仰をもって叫んだのです。この叫びは、祈りです。「わたしに呼び求めよ、そうすれば、わたしはあなたに答える」(エレミヤ33:3)汝、我に呼び求めよ。われ汝に答えん。他の神さまに祈っても駄目です。天地万物を創造なさった神、イエス・キリストの父なる神、真の神さまに信仰もって祈るならば、必ず答えて下さいます。バルテマイは、この信仰をもってイエスさまに叫び求めました。「イエスは立ちどまって『彼を呼べ』と命じられた。そこで、人々は彼を呼んで言った、『喜べ、立て、おまえを呼んでおられる』」バルテマイの叫びが、イエスさまを立ち止まらせたのです。バルテマイは、上着を脱ぎ捨て、踊りあがってイエスのもとにきました。彼の喜びようが目に見えるようです。イエスは、彼に尋ねました「わたしに何をしてほしいのか」彼は言いました「見えるようになることです」バルテマイは、富を求めません。家も家族も、そのようなものを求めませんでした。言い換えれば、この世が求めるようなものは、何ひとつ求めませんでした。彼は、ただひとつのことを求めました。彼にとって一番必要なものを求めました。私たちは、いろいろな願い、祈りを神さまに申し上げます。しかし、祈り求めるものがたくさんあっても、最後はひとつだけになることがあります。あれも、これもと、神さまにお願いしますが、神さまは、本当に欲しいものはなんですかと尋ねられます。そう言われたとき、私たちはとまどってしまいます。「あなたに必要なものは、これですよ。どうして、これを求めないのですか」と言われることがあるのです。バルテマイは、その求めをまちがうことがありませんでした。「見えるようになることです」私たちは、何が見えるようになれば、安心するでしょう。それは、教会のかしらがイエス・キリストさまであることが見えるようになることです。教会のかしらとして、イエス・キリストさまがおられる、この事が、私たちに見えるようにして下さいと、求めてまいりましょう。
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