2025、8、24      聖霊降臨節第12主日礼拝    牧師 川﨑善三

「地の果てまでも」                マルコ12:1~9

 イエスさまは、エルサレムで(金曜日)十字架につけられ、なくなられるわけですが、

その日の四日前の火曜日に、エルサレムの神殿で祭司長や律法学者たちに、たとえをお話しになられました。ある人がぶどう園を持っていました。そのぶどう園から豊かな収穫を得るために、垣をめぐらし、酒ぶねの穴を掘り、やぐらを立てて、あとは農夫たちが働いてくれれば良いと言うように、すべての準備をして、それを農夫たちに貸して、その人は旅に出かけました。やがて、収穫の季節になったので、その人はひとりの僕を送って収穫の分け前を取り立てようとしました。ところが、農夫たちは主人からつかわされた僕をつかまえて、袋だたきにして、から手で帰らせました。農夫たちは、これで主人に収穫の分け前を納める必要はなくなった、みんな自分たちのものだと思いました。ところが、主人はそれから何度も、僕たちを送ってきました。農夫たちは、その都度、収穫の分け前を、ご主人に差し出すと言うことはしませんでした。ある僕は、頭をなぐられて、侮辱を受け、から手で帰ってきました。又、ある僕は農夫たちに殺されてしまいました。他にも、何人もの僕たちが送られてきましたが、農夫たちは反抗し続けました。やがて、主人は思いました。わたしの息子を彼らの所へ送ろう、わたしの息子なら、彼らは敬ってくれるだろう。ところが、農夫たちは主人の息子がやってきたとき、こう言いました「あれはあと取りだ。さあ、これを殺してしまおう。そうしたら、ぶどう園はわれわれのものになる」そう言って、ご主人の息子をつかまえて、殺し、ぶどう園の外に投げ捨てました。イエスは、このぶどう園の主人はどうするだろうかと尋ねました。「主人は、農夫たちの所にやってきて、悪行を働いた農夫たちを殺し、そのぶどう園を他の人々に与えるだろう」と、主は言われました。イエスさまはこのたとえを、自分を殺そうと思っている祭司長や律法学者にむかって、お話しになりました。十字架の出来事が、もうすぐ起ころうとするこの時、どうして、このたとえを主はお話しになられたのでしょうか。イエスさまは、悪人がその悪を離れ、神さまのみもとに帰ってきて、ごめんなさいと謝り、「もう悪いことはいたしません」と心を入れ変えてくれることを、いつも期待しておられると言うことです。この話を聞いた祭司長たちは、どういう反応をしたでしょうか。「彼らは、いまの譬が自分たちにあてて語られたことを悟ったので、イエスを捕えようとしたが、群衆を恐れた」彼らは、心を改めることをしませんでした。このことによって、イエス・キリストの救いの福音は、ユダヤ人以外に宣べ伝えられるようになりました。「ぶどう園の主人は出てきて、彼らを殺し、ぶどう園を他の人々に与えるであろう」歴史は、このイエスさまの語られたとおりになりました。紀元七十年、エルサレムはローマ軍によって包囲され、陥落し、多くのユダヤ人が死にました。そして、福音は地の果てまで宣べ伝えられるようになりました。「わたしは、あなたを立てて異邦人の光とした。あなたが地の果までも救いをもたらすためである」未だ、福音が宣べ伝えられていない所に行って、イエスさまの話をすることが、私たちにゆだねられています。