2025、8、31 聖霊降臨節第13主日礼拝 牧師 川﨑善三
「貧しいやもめのささげもの」 マルコ12:41~44
イエス・キリストの公生涯は、めぐみとまことに満ちたものでありました。貧しい人々が福音を聞いて喜び、病める人々がいやされ、悲しむ者が慰められると言う、数々の恵みのわざがイエス・キリストを通して現されました。それと同時に律法学者、祭司長たちとの論争の日々であったことが聖書からわかってまいります。ひとりの律法学者がイエスに尋ねました「すべてのいましめの中で、どれが第一のものですか」普通、一般大衆は、こんな質問をしません。モーセの十戒から始まり、生活律法と呼ばれる申命記の戒め、その他に数々の戒めを知っている人の質問です。イエスは答えられました。「心をつくし、精神をつくし、思いをつくし、力をつくして、主なるあなたの神を愛せよ」第二は「自分を愛するように、あなたの隣人を愛せよ」彼はこの答えを聞いて「先生のおっしゃるとおりです」と言いました。主イエスは喜んで、彼に言われました「あなたは神の国から遠くない」それから後は、イエスにあえて問う人はいなくなりました。
ここに、沈黙が生まれました。もはや、誰ひとり、イエスさまに質問する人が出てきませんでした。人が沈黙する時こそ、神が語り始められる時です。私たちは、祈りの中で様々な思いと願いを神さまに訴えます。そんな祈りがどれだけ続くでしょうか。一時間、二時間、私たちの願いや祈りが、次から次へと出てくるものでしょうか。時間をかけて祈り続けたならば、また最初の祈りにもどってしまいます。私たちが、思いのたけを、すべて神さまにお祈りしたあとに、何が残るでしょうか。「何事も思い煩ってはならない。ただ、事ごとに感謝をもって祈と願いとをささげ、あなたがたの求めるところを神に申し上げるがよい。そうすれば、人知ではとうてい測り知ることのできない神の平安が、あなたがたの心と思いとを、キリスト・イエスにあって守るであろう」(ピリピ4:6、7)わたしたちが、祈りつくしたあとには、口では言い表すことのできない神の平安が、あなたがたの心宿ると言う経験をするのであります。 さて、イエスさまが、さいせん箱に向かってすわっていたときの事です。「多くの金持は、たくさんの金を投げ入れていました」イエスさまは、金持ちの信仰と克己心をご覧になって、それをお喜びになりました。決して、金持ちの多額の献金をいやしめられた訳ではありません。ところが、その中にひとりの貧しいやもめが、さいせん箱に近よってレプタ二つを入れる所をごらんになりました。この時、イエスさまは、わざわざ弟子たちを呼び寄せて言われました「よく、聞きなさい。あの貧しいやもめは、さいせん箱に投げ入れている人たちの中で、だれよりもたくさん入れたのだ。みんなの者は、ありあまる中から投げ入れたが、あの婦人はその乏しい中から、あらゆる持ち物、その生活費全部を入れたからである」神さまに対する献げものの多い少ないは、その分量ではなく、献げる人の信仰とその信仰によって、どれほどの痛み、犠牲を伴うものであるかを神さまはご覧になられると主は言われました。このやもめは、その生活費すべてを、その乏しい中から献げた。イエスさまは、この事を喜び、賞讃されたのであります。
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