2025、10。26     降誕前第9主日礼拝        牧師 川﨑善三

「十字架への道」                     マルコ10:32~45

 人生の最後の旅路を、私たちはどのように歩んでいくのでしょうか。誰れひとりとして、自分の最後を知ることのできる人は、いません。ただ、おぼろげに、こういう死に方をするかも知れないと想像することはできるでしょう。しかし、具体的に、どのような死に方で、人生の最後を迎えるのかを知っていた人がいました。それは、イエス・キリストと言うお方でした。「人の子は、必ず多くの苦しみを受け、長老、祭司長、律法学者たちに捨てられ、また殺され、そして、三日の後によみがえるであろう」(マルコ8:31)旧約聖書には、キリストはエルサレムで苦しみを受けると預言されていました。イエスさまが、いつ頃から受難について認識しておられたかは、よくわかりません。しかし、主が一番最初、エルサレムへ上られた時、ニコデモにこう言われました「ちょうど、モーセが荒野でへびを上げたように、人の子もまた上げられなければならない。それは、彼を信じる者がすべて永遠の命を得るためである」(ヨハネ3:14)これが、十字架の予告の一番最初のイエスさまのお言葉です。それは、主が一番最初にエルサレムへ上られた時の話であります。「さて、一同はエルサレムへ上る途上にあったが、イエスが先頭に立って行かれたので、彼らは驚き怪しみ、従う者たちは恐れた」何か、ただならぬ気配を弟子たちとその一行は感じました。あまりにも、主が毅然とした態度で進んでいかれたからであります。そして、再び十字架の受難について話されました。しかし、弟子たちはそのことをどうしても信じることはできませんでした。それが、たとえのように思われたからです。その時のだしたちの思いがどのようなものであったかを知る話が、そのあと出てきます。ゼベダイの子ヤコブとヨハネが、イエスさまのところに来てお願いしました。主が栄光の座にお着きになるとき、ひとりはあなたの右に、ひとりはあなたの左にすわれるようにして下さい。弟子たちは、このことを聞いて憤慨しました。みんなが、偉くなりたいと思っていたからであります。主は、そんな彼らの目をさまさせるために、こう言われました「人の子がきたのも、仕えられるためではなく、仕えるためであり、まだ多くの人のあがないとして、自分の命を与えるためである」(マルコ10:45)この主のお姿は、私たちがどのような生き方をするのが、一番幸せかということを教えてくれます。頂点に立って、権力をふるうものは、いつか、その権力を奪われ、その座から引きずり降ろされます。伴天連追放令で、国外退去の憂き目にあつた司祭が、こう言いました。「わたしは悪しき者が勝ち誇って、レバノンの香柏のようにそびえたつのを見た。しかし、わたしが通り過ぎると、見よ、彼はいなかった」(

詩篇37:35、36)秀吉の天下が、そんなに長くないことを、彼は予言しました。世の支配者の権勢は、一時的であり、はかないものであります。しかし、愛に生きた人の生涯は、人の心の中に記憶され、永遠に語り続けられます。主は、まさにそういう生き方をされたお方でありました。