|
1月11日 奨励要旨 川﨑和雄 兄弟
「あなたがたの喜びが満ちあふれるためです」
私たちクリスチャンが教会に集うとき、主からの言葉を受け取る準備が整っていることは、実に素晴らしいことです。礼拝とは、まず神様が語られ、私たちがそれを受け取る場です。しかし一方で、「教会に来て受け取ることばかり考えていて、神に仕えることや捧げることを忘れているのではないか」と指摘されることもあります。けれども、よく考えてみると、私たちが神の前で本当に誇れる行いは何一つありません。私たちができる唯一の良いこと、それは「受け取ること」なのです。神様は、初めから私たちに良いものを与える方です。イエス・キリストなしに、霊的に満たされている人は一人もいません。私たちはイエス様によって救われ、新しく生まれ変わりましたが、その後もなお、神様から受け取り続ける存在として生かされています。受け取ることをやめた瞬間、私たちの信仰生活は、恵みではなく努力にすり替わってしまいます。
聖書は、イエス様と特別に親しい関係にあった家族、ラザロと姉妹のマルタ、マリアの姿を通して、この真理を示しています。イエス様が彼女たちの家を訪れたとき、マルタは主を喜ばせようと一生懸命にもてなしの準備をしました。それ自体は決して悪いことではありません。しかし、彼女は次第に忙しさの中で心が乱れ、ついには不満と文句を口にしてしまいます。一方マリアは、イエス様の足元に座り、ただ御言葉に耳を傾けていました。このときイエス様は、「あなたは多くのことに思い煩い、心を乱しています。しかし、必要なことは一つだけです。マリアはその良い方を選びました」と語られました。神様が求めておられるのは、私たちの頑張りや成果ではなく、主ご自身に向けられた心です。聖書は「人はうわべを見るが、主は心を見る」と語り、また「あなたの心をわたしに与えよ」と招いています。神様は、心がすべてを左右することをよく知っておられるのです。
神様は愛そのものです。この世界と人間を創造されたのも、その愛を注ぎ、受け取ってもらうためでした。律法は、人が自分の力では神を完全に愛しきれないことを示すために与えられました。神様は人を裁くためではなく、恵みによって救うために、ご自身ひとりで契約の責任を背負われました。創世記に記されているように、契約の間を通られたのは神様だけであり、人の失敗をすべて見越した上での一方的な恵みでした。
イエス様は十字架と復活によって、私たちに永遠の命を与えてくださいました。この世は、すべて一時的ですが、神様から与えられる命と愛は永遠です。しかし、地上を歩む私たちはなお弱く、家庭や職場、日常生活の中で不満や文句を口にしてしまう存在でもあります。出エジプトの民が繰り返し犯した最大の罪も、まさにこの「文句」でした。
だからこそ私たちは、マリアのようにイエス様の足元に来る必要があります。主は、「求めなさい。そうすれば受けるのです。あなたがたの喜びが満ちあふれるためです」と招いておられます。文句ではなく感謝へ、思い煩いではなく信頼へと心を向けるとき、聖霊によって私たちの内に火が燃え、喜びに満たされた歩みへと導かれていきます。
|