1月18日 奨励要旨                         川崎和雄 兄弟

「苦しみの意味」 ヨハネによる福音書9章1~3節

私たちは人生の中で、病気や事故、災害、人間関係の破綻など、思いがけない苦難に直面します。そのとき自然に湧いてくるのは、「なぜこのことが起こったのか」「誰の責任なのか」という問いです。

ヨハネによる福音書9章で、弟子たちも同じ問いをイエスに投げかけました。「この人が生まれつき目が見えないのは、誰が罪を犯したためですか」(9章2節)。弟子たちは、苦しみを因果関係で理解しようとしました。しかしイエスはこう答えられます。「この人が罪を犯したのでもなく、両親でもない。神のわざがこの人の上に現れるためである」(9章3節)。イエスは、苦しみを誰かの罪や責任に結びつける考え方を退け、私たちの視線を神の御業へと向けられました。

苦難は人生の計画を突然変更させます。「こんなはずではなかった」「この先どうなるのか」。苦しみの痛みそのもの以上に、「この苦しみに意味はあるのか」という問いが、人を深く苦しめます。このことを示す一つの例として、精神科医ヴィクトール・フランクルの体験があります。彼は第二次世界大戦中、アウシュビッツ強制収容所に送られ、家族や自由、尊厳のすべてを奪われました。明日生きている保証もない極限状態の中で、彼は一つの事実に気づいたと言います。それは、人間から最後まで奪えないものがある、ということでした。それは「この苦しみをどう受け止めるか」「人生に意味を見いだすかどうかを選ぶ自由」です。収容所の中で、希望を完全に失った人は急速に力を失っていきました。一方で、わずかでも意味を受け取り続けた人は、生きる力を保ちました。フランクルは、意味が人を生かすことを身をもって知ったのです。

聖書もまた、苦しみの中で神が共におられることを語ります。「恐れるな。わたしはあなたと共にいる」(イザヤ41章10節)。神は苦しみを簡単に説明する方ではなく、苦しむ者のそばに立たれる方です。さらに聖書は、私たちの人生が偶然ではなく、神の御手の中にあることを告げています。「すべてのことが、神を愛する人々のために共に働いて益となる」(ローマ8章28節)。この言葉は、すべてが理解できるという約束ではありません。むしろ、意味が見えない出来事の中でも、神が働いておられるという信頼への招きです。イエスが示された信仰の本質は、苦難を避けることではなく、苦難のただ中で神と出会うことにあります。神の栄光が現れるとは、問題が即座に解決することではなく、「この場所にも神がおられる」と知らされることです。

教会は、苦しむ人を独りにしないために建てられています。意味がわからないままでも、共に祈り、共に歩む中で、私たちは少しずつ神の御業を見いだしていきます。私たちの人生に与えられる十字架は、そこでイエス・キリストと出会うための場所となり得るのです。

私たちは今もなお、答えの見えない問いを抱えながら歩んでいます。しかし主は、その問いを抱く私たちを退けず、共に立ち止まり、共に歩んでくださいます。苦難の中で主と出会うとき、人生は再び意味を帯び始めます。その希望に支えられて、今週も歩み出していきましょう。