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2026.2.22 受難節第1主日 牧師 田添禧雄
「主イエスのみ姿が変わる」 マタイ 17の1-8
「主イエスのみ姿が変る」マタイによる福音書17章1~8節 マタイ17・1~8を節を追って読んでいこう。1節 「六日ののち」とは、イエスが第1回の受難予告をされてから「六日ののち」であることは言うまでも無い。イエスは「ペテロとヤコブとヨハネだけを連れて高い山に登られた」のである。会堂司ヤイロの娘のいやしの時も、ゲッセマネの祈りの時も、この3人だけを連れて行かれた。今年の渡辺禎雄版画カレンダーの大きな魚を抱いた3人の人物はこのペテロとヤコブとヨハネである。この3人を連れて行かれるのは、主イエスはご自分の死後のために、特別な弟子教育をされたのであろう。
2節「ところが、彼らの目の前でイエスの姿が変り」とは、正にこれは主イエスの本来の「神の独り子イエス」のお姿に変わられたのである。一瞬ではあるが、「その顔は日のように輝き、その衣は光のように白くなった。 」それは天的な存在の証明であった。苦難と復活を前に主イエスの神性を示しそれに備えることが目的であった。
3節「モーセとエリアヤ」とは、律法を代表するモーセと、預言を代表するエリヤ、すなわち「旧約=古い契約」を象徴する2人と、「新約=新しい契約」のイエスが語り合っていたことで「新しい契約」が成就したことを示すものである。また、「語り合っていた」内容を、ルカ9:31は「イエスがエルサレムで遂げようとする最期について、話していたのである。」と記す。言うまでもなくイエスの十字架の死と復活である。
4節「ペテロは「主よ、わたしたちがここにいるのは、すばらしいことです。もし、おさしつかえなければ、わたしはここに小屋を三つ建てましょう。一つはあなたのために、一つはモーセのために、一つはエリヤのために」。ペテロは自分でも「何を言ったらよいか、分からなかった」と言っているが頓珍漢な事を言う。ペテロは主が苦難の死に遭遇する御心に思いを致すのではなく、3人の小屋を3つ作っていつまでもお留めしたいと思ったのであろう。
5節 「これはわたしの愛する子、わたしの心にかなう者である。これに聞け。 」との御声がペテロの言葉を遮って響いた。この「御声」は、主イエスが洗礼の時にもと聞いた御声の再現であり、主イエスの神の独り子のメシヤ性・神性を示すものであり、続いて「これに聞け。」であった。「これに聞け。」との天の御声は、やがて来るべきご受難に備え、更には終末の時に備え「これ(イエス)に聞け」と示されるのである。
6~8節一瞬のこの凄まじい出来事に非常に恐れ、顔を地に伏せた弟子たちを「起きなさい、恐れることはない。」とイエスは励まされる。
主の変容は、私たちは、地上の「人の子イエス」を見ているが、ここでは天上の「神の独り子イエス」を瞬間ではあるが垣間見せられた。「主イエス・キリストは神に御子」であるということを垣間見せられた事実に目をとめよとのメッセージである。このことを、いま私たちは「使徒信条」で「人の子イエス」が「天に昇り、全能の父なる神の右に坐したまえり」と、「天上の神の子イエス」を告白しているのである。
私たちは「これに聞け。」と神の御子の御声に聞きつつ今日も慰めと希望の泉を与えられたい。
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