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2026.4.26 礼拝説教 牧師 田添禧雄
「一緒に歩かれる主」 ルカ24:13~35
共に歩かれる主 この日、ふたりの弟子が、エルサレムからエマオという村へ行きながら、この日にエルサレムで起こった一切の出来事について互に語り合っていた。そこに、主イエスが近づいてきて、彼らと一緒に歩いて行かれたが、彼らの目がさえぎられて、イエスを認めることができなかった。ヨハネ21:4でも、イエスが岸に立っておられたのに弟子たちは分からなかった。私たちが、私たちが、気がつかない先に、主は「既に」来ていて下さることは、私たちの希望であり慰めである。ヨハネ20:14でもマグダラのマリアも背後におられる主に気が付かない。他人ごとではない、私たちも、困難な状況に追い込まれた時、一緒に歩かれる主、岸にたっておられる主、背後におられる主に気が付かない。しかしそのような私に、主は共に歩み、寄り添って下さる。私たちも、他者と共に歩む者、他者に寄り添う者になりたい。
遠藤周作さんが『沈黙』を書いた動機は、長崎で、「踏絵」を目にした時、「踏んだ人々の心の痛み」に強く惹かれたからである。称賛される「殉教した強い者」ではなく、「踏んでしまった弱い者」の悲しみを書きたいと決意したのが原点である。『沈黙』のあらすじは、17世紀日本に渡った宣教師ロドリゴは、転んだ(棄教した)とされる師フェレイラを探しつつ、迫害下の信徒を支える。しかし迫害は激しさを増し、信徒は次々と処刑され、ロドリゴ自身も捕らえられ、拷問を受ける人々を救うため踏み絵を迫られ、先に転んだフェレイラは祭司ロドリゴに形式でもよいから踏むように勧める。ついロドリゴは苦悩の末に踏む。
「司祭は足をあげた。足に鈍い重い痛みを感じた。それは形だけのことではなかった。自分は今、自分の生涯の中で最も美しいと思ってきたもの、最も聖らかと信じたもの、最も人間の理想と夢にみたされたものを踏む。この足の痛み。その時、踏むがいいと銅版のあの人は司祭にむかって言った。踏むがいい。お前の足の痛さをこの私が一番よく知っている。踏むがいい。私はお前たちに踏まれるため、この世に生れ、お前たちの痛さを分かつため十字架を背負ったのだ。こうして司祭が踏み絵に足をかけた時、朝が来た。鶏が遠くで鳴いた。」
「私は沈黙していたのではない。一緒に苦しんでいたのに」と主は言われる。遠藤さんは、いつも主イエスが「同伴者」であり、「主が弱い者といつも苦しみを共にしておられる」ことを描こうとしている。
「彼らと一緒に歩いて行かれた。」=聖書にはそのことがたびたび書かれている。イザヤ 63: 9「彼らのすべての悩みのとき、主も悩まれて、そのみ前の使をもって彼らを救い、その愛とあわれみによって彼らをあがない、いにしえの日、つねに彼らをもたげ、彼らを携えられた。」(その他・創世記28:15、申命記 1:31、イザヤ46:3~4)
一緒にお泊りください 2人の目的地であるエマオに近づいたが、日が暮れる中、イエスはなお先に進みゆかれようとされる。そこで、しいて引き止めて言った、「わたしたちと一緒にお泊まり下さい。もう夕暮になっており、日も早や傾いています。」そこでイエスは、彼らと共に泊まるために、家にはいられた。
ここを歌った讃21 218番。「1節 日暮れて やみはせまり、わがゆくて なお遠し。助けなき身の頼る 主よ、ともに宿りませ。」死が迫っても苦しみに克ち、死を微塵も恐れない姿が、この言葉に凝縮されてる。作詞者ヘンリー・フランシス・ライト(1793~1847)はイギリス国教会の司祭、54歳で召される。人生の夕暮れの不安と恐れを覚えつつ書かれた詞、「ずっとそばにいてくださいAbide with me」という強い信頼の情が溢れている。主への信頼と永遠の生命への希望が歌われている。4節「死の刺(はり)いずこにある 主のちかくましまさば われ勝ちてあまりあらん 主よともに宿りませ」。この詩には、生きるにも・苦境にあるにも・死ぬるにも、いずれにおいても、「主よ、わたしと共にいて下さい」という、主に対する全き信頼と祈りが込められている。
そして、食卓につき、パンを取り、祝福してパンをさかれた時、 彼らの目が開けて、イエスであることがわかった。主の生前、幾度となく食卓についたとき、パンを取り、祝福してパンをさかれた経験。私たちもパンを取り、祝福してさかれる時(聖餐式に与る時)、眼が開け、み言葉が思い起こされ、心が内に燃える。彼らは互に言った、み言葉によって「お互の心が内に燃えたではないか」。聴いたみ言葉、かつて感動したイエスの教えと愛が思い起こされ、心が打ちに燃えたではなか。
私たちがそれと気付かぬうちに、主イエスは弱い私たちの道連れ、同行者となって「一緒に歩いて」くださる。聖書を説き明して下さるとき心が燃えた。「一緒にお泊まり」下さり、パンを割かれた時、二人の目を開けたように、私たちの目も開け、イエスの十字架を悟らせて下さるのがイースターである。ハレルヤ!
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