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2026.5.17 復活節第7主日礼拝説教要旨 牧師 田添禧雄
「キリストの昇天」ルカ24:44~53
(1)<昇天>は<降誕>の終わり
主イエスが天に昇られたことは、地に降られたからである。すなわち、天の極みにまで上げられたことは、地の深みまで降られたこと。「天が地に臨んだ<降誕>。地が天にとどけられた<昇天>。」この天と地の距離こそ、イエスを信じるものが見据えるべき万物に対する神の愛の広さ、長さ、高さ、深さである。
ピリピ2:6~9、「キリストは、神のかたちであられたが、神と等しくあることを固守すべき事とは思わず、かえって、おのれをむなしうして僕のかたちをとり、人間の姿になられた。その有様は人と異ならず、おのれを低くして、死に至るまで、しかも十字架の死に至るまで従順であられた。それゆえに、神は彼を高く引き上げ、すべての名にまさる名を彼に賜わった。」これが最も的確に言い表している<降誕>と<昇天>の意義である。主イエスのご昇天に際し、私たちの救いのために、地の深みまで降られた方が天の極みにまで上げられたことをもう一度はっきり受け止めたい。
(2)<昇天>は弟子(私たち)の<自立>のため
昇天の意味は、復活後イエスがしばしば弟子たちに現れた期間に終止符を打ち、弟子たちを自立させることであった。イエスと弟子たちの直接の関係は、昇天によって終わり、弟子は自立して主のご命令通り伝道をはじめたのである。昇天と約束の聖霊降臨によって、弟子たちは主の証人として、伝道者として、また他者のために仕える者として、人格的、霊的、信仰的に新しく自立した生き方をはじめたことを学びたい。わたしたちもまた真剣に祈りお従いしてゆくならば、必ずや主イエスの昇天に際し自立した信仰者として頂けるのである。
(3)<神の右に>坐しておられる主イエスを仰ぎ見つつ
人間には会った数だけ別れがあると言われるが、中でも死別は本当に辛い、悲しい別れである。私は今までの沢山のお葬式の司式をしたが、火葬場でしばしば遭遇した出来事は、隣どうし他の方と同時に火葬前式を執り行うことがある。私たちは火葬前式では、「さようなら」ではなく、「また逢う日まで」とお別れしましょうと言って、「神ともにいましてゆく道を守り・・・また逢う日まで」と賛美歌を歌いながら火葬する、もちろん涙し悲しく寂しいが、天国でのまた逢う日の希望をもってお別れをする。しかし。しばしば、お隣では、おかまの扉が開くや否や、一斉に今生の別れを悲しむ泣き声が場内に響き渡るのである。いつもこの違いは、一体何なのかと思うのである。
私の親しい牧師も「昇天をめぐっての説教」で、「主は天に昇り、弟子たちは地上に留まりました。けれども、イエス様の昇天の最後の言葉は『さようなら』ではありませんでした。『見よ、わたしは世の終りまで、いつもあなたがたと共にいるのである』。であって、イエス様は『さようなら』を言いません。・・・わたしたちはこの世に生まれてきた以上、いつかこの世に別れを告げ、愛する家族や友人に『さようなら』を言わなければなりません。そのような時、『さようなら』を言わない主イエス様の姿、『見よ、わたしは世の終りまで、いつもあなたがたと共にいる』「いつも共にいてくださる」との主の言葉こそ、私たちを最後まで慰め、支えてくれる源なのです。この昇天の場面でも、イエス様が『さようなら』を言わなかったという事実を心に留めておきたいと思います。」と。
主イエスが生前「去って行くがまた帰る」と約束されたにもかかわらず茫然と天を見上げている弟子たちに、み使いは「ガリラヤの人たちよ、なぜ天を仰いで立っているのか。あなたがたを離れて天に上げられたこのイエスは、天に上って行かれるのをあなたがたが見たのと同じ有様で、またおいでになるであろう」と告げた。「またおいでになる」と言われた時、弟子たちは気が付いた。そして、「彼らはイエスを拝し、非常な喜びをもってエルサレムに帰り、絶えず宮にいて、神をほめたたえていた。」と、弟子たちは新しい第一歩を踏み出したのである。初代教会が、「マラナ・タ。主イエスよ、来て下さい。」(Ⅰコリ16:22)と祈ったように、わたしたちも主イエスを仰ぎ見つつ、緊張と期待の思いをもって生きたい。
(4)信仰告白「全能の父なる神の右に坐したまえり」
私たちは、使徒信条で、「死にて葬られ、陰府にくだり、三日目に死人のうちよりよみがえり、天に昇り」とすべて<完了形>で告白する。そのあと突然、「全能の父なる神の右に座したまえり、」と<現在形>で告白する。すなわち「神の右に坐したまえり」は、過去でもない、未来でもない、今現在の告白なのである。
わたしたちは、「天に昇り、全能の父なる神の右に坐したまえり」と告白しているが、この臨在をどれほど実感し、体験しているであろうか。主イエスは神の右にあっていつも私のために執り成していてくださるのである。へブル 7:24~25には、「彼は、永遠にいますかたであるので、変らない祭司の務を持ちつづけておられるのである。そこでまた、彼は、いつも生きていて彼らのためにとりなしておられるので、彼によって神に来る人々を、いつも救うことができるのである。」とある。信仰とは、このことを今日、実感して感謝をもって生きることである。
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