2026.06.07               礼拝説教            田添禧雄 牧師

「嵐の中の舟」 マルコによる福音書4:35~41                 

1)嵐の中の弟子たちと主イエス                                          
お配りしたレンブラントの
 『ガリラヤの海の嵐』を見ながら読んでみましょう。イエスは弟子たちに、「向こう岸へ渡ろう」と言われ舟で乗り出しました。すると、激しい突風が起り、舟に波が満ちそうになった。しかしイエス自身は、舳の方でまくらをして眠っておられました。弟子達は「先生、わたしどもがおぼれ死んでも、おかまいにならないのですか」と叫びます。レンブラントの絵を見ても文字通り嵐に翻弄されている舟の中で、安らかに眠っておられる主イエスのお姿と、恐怖と不安に充ちみちた弟子達の姿とがありありと描かれています。                                                          
2)シンボルとしての <舟>、<湖>、<嵐>                               
さて、シンボルとは、たとえば、十字架でキリスト教を、白で純潔を、ハトで平和を表わす類のことです。聖書的シンボル(象徴)には、光、火、水、鳩、魚、道などが挙げられますが、ここでは舟、湖、嵐が非常にシンボリカルな言葉です。象徴的な<舟、湖、嵐>は、詩篇107篇23~31節に非常によく表されていますから読んでください。しばしば<教会>は<船>に象徴されています。「祈り方を知らない者は海に行かせよ」と言う格言がありますが、海で嵐が起れば人間は祈るより為す術がありませんから真剣に祈ります。                                   <嵐>は、現実に起こる自然現象の嵐のみならず、悪魔的な諸力、戦争、地震、水害等の自然災害、そして近年いろいろ振り回されている感染症、等々様々な私たちに襲い掛かる<嵐>があります。それらの前に人間の知恵、力、経験は何の役にも立たちません。  
                
3)眠り=「主イエスの眠り」と「弟子の眠り」                          
1.主イエスの眠り                                                
主イエスと言えども、多くの群集との対応や一日の疲れを覚え、ぐっすりとしばし舟の中で眠られています。「きつねには穴があり、空の鳥には巣がある。しかし、人の子にはまくらする所がない」と言われる主イエスにも、三つの眠りがあると言われます。

一つ目は、馬槽の中に眠られる幼児イエスです。賛美歌109番の<きよしこの夜 >「きよしこの夜 星はひかりすくいの御子は まぶねの中にねむりたもう いとやすく」と歌われる嬰児主イエスさまの眠りです。

二つ目は、この嵐の舟の中で眠られる主イエスです。無力に横たわる神の子イエスの眠りは、私たちを救って下さるために人間の弱さのレベルまで下ってくださった方の眠りです。

そして三つ目は、墓の中に眠られる主イエスです。 主イエスは、人となられたのみならず、「十字架につけられて死に、葬られ、陰府(よみ)に下り、」とあます。死を永眠と言いますが、死の眠りについてくださいました。お配りしたドイツルネサンス期の画家ハンス・ホルバインの『墓の中の死せるキリスト』は、まさに墓の中に眠られる主イエスの御姿です。

主イエスの<三つの眠り>は、詩篇4篇8節のみ言葉通りです。「わたしは安らかに伏し、また眠ります。主よ、わたしを安らかにおらせてくださるのは、ただあなただけです。」と言う愛なる神への全き信頼の眠りです。

2.弟子たちの眠り

それに対して、弟子たちの眠りは、「ヨナは船の奥に下り、伏して熟睡していた。」という様な怠惰な眠りです。ゲッセマネの弟子たちの眠りがそれです。「誘惑に陥らないように、目をさまして祈っていなさい。心は熱しているが、肉体が弱いのである。」(マルコ14:32~)と言われるものであります。福音書の教えでは、「人々が眠っている間に敵がきて、麦の中に毒麦をまいて立ち去った。」(マタイ13:25)、「だから、目をさましていなさい。その日その時が、あなたがたにはわからないからである。(マタイ25:13)」、また「あなたがたの眠りからさめるべき時が、すでにきている」。(ローマ13:24)とある人間の怠惰な眠り、それに対する警告です。箴言6章9~10節には、正に私たちの怠惰な眠りが書かれています。                                                    

4)愛なる主を信頼すること  

嵐の中の舟が最悪状態になった時、弟子たちは慌てふためいています。そこで、「イエスは起きあがって風をしかり、海にむかって、『静まれ、黙れ』と言われると、風はやんで、大なぎになった。イエスは彼らに言われた、『なぜ、そんなにこわがるのか。どうして信仰がないのか』。」と主イエスは弟子たちの不安と絶望の状態に陥った不信仰を叱られました。愛なる神が共にいますのに信頼がないことが問われています。主イエスは弟子達を叱りながらも、弟子の「不信仰」、「無力」を非難するのでなく、むしろ弟子の弱さを己が弱さとして、限りない弟子たちへの愛のお言葉でした。このようにして弟子たちは、主イエスの愛を示され、神の子イエスに対するキリスト告白へと導かれるのです。「主が共におられる。インマヌエル。」「わたしの愛のうちにいなさい。<わが愛に居れ>。」(ヨハネ15章9節)

5)カール・バルトのエピソード 「主われを愛す」

「20世紀最大のプロテスタント神学者」スイスのカール・バルトが、晩年アメリカの神学校で講演された時、一人の神学生が臆面もなく「先生の膨大な神学を一言で言い表す言葉があるとすればなんでしょうか。」と、会場は固唾を飲んでいましたら「それは母親から教えられた讃美歌『主われを愛す、主は強ければ』に尽きます。」と言われました。素晴らしい逸話ですね。