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2026.6.28 聖霊降臨節第6主日礼拝 牧師 川﨑善三
「見よ、今は救いの日である」 ルカ10:2~16
イエスさまは、ご自身に与えられた時間(それは三年間という宣教の短い時間でしたが)を、無駄にされることはありませんでした。パウロはコリントの教会の信徒に言いました「わたしたちはまた、神と共に働く者として、あなたがたに勧める。神の恵みをいたずらに受けてはならない。」(Ⅱコリント6:1,)パウロは言います、神さまからせっかく与えられている平安、祝福と言うようなものを、無意味なものにしてはならないと言う意味であり、言い換えれば、神の恵みを無駄にしてはならないと言うことであります。「見よ、今は恵みの時、今は救の日である」(Ⅱコリント6:2)私たちは、時折、昔は良かったなどと言いますが、それでは今が駄目なように聞こえます。昔も良かったかも知れませんが、今生かされていると言うことが、最もすばらしい神の恵みであります。パウロと同じように、イエス・キリストも、今という時間を無駄にすることなく、充実した力いっぱい生きるということを尽くされました。イエスさまにとって、伝道するということ、宣教するということは生涯を貫かれた尊いみわざでありました。「その後、主は別に七十二人を選び、行こうとしておられたすべての町や村へ、ふたりずつ先におつかわしになった」文語の聖書では、弟子の数は七十人とされています。十に使徒以外の中から、七十人もしくは七十二人を選んで、おつかわしになりました。ここで教えられることは、「主が行こうとしておられた町や村へ」彼らがつかわされたということです。今も、「主が行こうとしておられる町や村」、そこに私たちもつかわされていると言うことであります。私たちは、天国の全権大使として救われ、世につかわされているのです。「イエスさまの代わりにつかわされている」と聞けば、私たちは事の重大さに、襟を正さねばなりません。イエスさまは言われました「収穫は多いが、働き人が少ない。だから、収穫の主に願って、その収穫のために働き人を送り出すようにしてもらいなさい」(ルカ10:2)私たちの罪は、このイエスさまの言葉を信じていないと言うことです。主は言われます「収穫は多い」。田舎のある教会で、幼稚園の経営者がクリスチャンではない方に代わり、幼稚園が別の場所に出ていきました。すると、不思議なことが起こりました。それまで、幼稚園があって、教会が目立たなかったのが、目立つようになりました。すると、今まで二、三人の日曜礼拝であつたのが、十人ちかくに増えてきました。主イエスは、現代においても「収穫は多い」と言われます。伝道の困難さは、昔も今も変わりません。人々があなたがたを迎えない場合には、大通りに出ていって言いなさい「わたしたちの足についているこの町のちりも、ぬぐい捨てていく。しかし、神の国が近づいたことは、承知しているがよい」これは、福音が受け入れなれなかったことの捨て台詞ではありません。「あなたのもとに、神の国が近づいたという事を知れ」と言いなさいと主は言われます。町に入ったら「神の国は近づいた」と言い、去る時も「神の国は近づいた」と言いなさい。すなわち、語り続けなさいと言う事です。主は宣教のみわざのために、私たちをこの地域につかわされます。
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