2026年7月5日聖霊降臨節第7主日説教

「パウロの祈り—私たちのための」  エペソ人への手紙三章一四~二一節       田添禧雄 牧師

★パウロの私たちのための四つの祈りである。パウロは私たちに祈りの本質を教えるものでもある。

父なる神が、あなたがたの内なる人を強くして下さるように。

②キリストがあなたがたの心のうちに住んで下さるように。

③人知をはるかに越えたキリストの愛を知ることができますように。

④神に満ちているもののすべてをもって、あなたがたが満たされるように。

 

★パウロの第一の祈りは、

「どうか父が、その栄光の富にしたがい、御霊により、力をもってあなたがたの内なる人を強くして下さるように。」と言う祈りである。

第一の祈りの内容は、神があなたがたの「内なる人」を強めて下さるようにとの祈りである。「内なる人」とは霊的次元に関することである。パウロの「内なる人」に関する聖句を見ると、第二コリント四・一六に「だから、わたしたちは落胆しない。たといわたしたちの外なる人は滅びても、内なる人は日ごとに新しくされていく。 」ここで言われる「内なる人」が強められるように祈る。また、エペソ四・二二~二四に「すなわち、あなたがたは、以前の生活に属する、情欲に迷って滅び行く古き人を脱ぎ捨て、心の深みまで新たにされて、真の義と聖とをそなえた神にかたどって造られた新しき人を着るべきである。」と「古き人を脱ぎ捨て」「新しき人を着る」ことが「内なる人」が強められるのであり、さらに、第二コリント三・一八の「わたしたちはみな、顔おおいなしに、主の栄光を鏡に映すように見つつ、栄光から栄光へと、主と同じ姿に変えられていく。」の「主と同じかたちに姿を変えられていく」ことが「内なる人」が強められるということなのである。

そのためには霊的なことゆえ、「その栄光の富にしたがい、御霊により、力をもって」強めていただかなければならないので、「父」なる神に祈らなければならないのである。

私たちの祈りは「外なる人」のための祈りが主になっていないか。個人のことでいえば健康、生活、人間関係、経済的なこと、そのほか様々な外的な不安、教会でいえば教勢、献金、教会運営これに類するものに偏る。もちろん「外なる人」の祈りも大切だが、しかし主イエスは、山上の説教マタイ六・三三で、「まず神の国と神の義とを求めなさい。そうすれば、これらのものは、すべて添えて与えられる」と教えて下さっているように「内なる人」が強められれば、「外なる人」も添えて強められるのである。

 

★第二の祈りは、                                            「信仰によって、キリストがあなたがたの心のうちに住んで下さるように。」と言う祈りである     パウロはここで、キリストが継続して「内に住み、永住して」下さるようにと祈っている。 
                                                                  19世紀のイギリスの宗教画家ウイリアム・ホフマン・ハントの「世の光」という絵の特徴は、主イエスがノックしている家の「戸」にある。その「戸」には、外側にはノブ(把ッ手)がない。だから中から開けなければ入ることができない。この絵の主題は、ヨハネの黙示録三・二〇「
見よ、わたしは戸の外に立って、たたいている。」である。主イエスを私たちの心の中に迎え入れるか、否かが、問われている。主イエスは、罪に穢れた私をあるがままに、十字架の血をもって贖い、憐れみと愛を持って招いてくださっているのである。「だれでもわたしの声を聞いて戸をあけるなら、わたしはその中にはいって彼と食を共にし、彼もまたわた
しと食を共にするであろう。 」と。キリストを心の内に住まわせるとは、戸を開けて主イエスを迎え入れることである。ガラテヤ二・二〇「生きているのは、もはや、わたしではない。キリストが、わたしのうちに生きておられるのである。」さらに言えば、それはひと時のお客様としてではなく定住していただかなければならない。これが第二の祈りである。そして先日お話をした(ルカ二四・一三~三五)エマオの旅人が同伴者主イエスを強いて引き止めて「わたしたちと一緒にお泊まり下さい。もう夕暮になっており、日も早や傾いています。」と、そこでイエスは、彼らと共に泊まるために、家にはいられた。ここを歌った『讃美歌21』二一八。「 日暮れて やみはせまり、わがゆくて なお遠し。助けなき身の頼る主よ、ともに宿りませ。」作詞者ヘンリー・フランシス・ライトのAbide with me。主よ、わたしと共にいて下さい。」という強い信頼の情が溢れる言葉こそ「キリストが私の心のうちに住む」ことを求めた祈りであろう。                                                                      

★第三の祈りは、

「あなたがたが愛に根ざし愛を基として生活することにより、すべての聖徒と共に、その広さ、長さ、高さ、深さを理解することができ、また人知をはるかに越えたキリストの愛を知ることができるように。」という祈りである。(一七節後半~一九節前半)。

神の愛は、歴史の中で、キリストの十字架によって私たちに明らかにされた。この愛に、あなたがたが愛に根ざし(これは園芸用語)愛を基として(これは建築用語)生活すること、歩むことにより、すべての聖徒と共に(共にであって、独善ではない、縦横のつながり、教会の交わりを意味する)、その広さ、長さ、高さ、深さ(無限を表す表現)を理解する力を持ち、「人知(人の知識)をはるかに越えたキリストの愛を知ることができるように」という祈りである。神の愛は、いろいろ御言葉で言い表すことができるであろうが、私はヨハネ三の一六に尽きると思う。「神はそのひとり子を賜わったほどに、この世を愛して下さった。それは御子を信じる者がひとりも滅びないで、永遠の命を得るためである。」また、キリストの愛は、福音書の「イエスのみ業とみ言葉」全てがキリストの愛を示している。その中で究極的には神の独り子の十字架の死と復活である。この愛を知ることができるのは、人知では不可能である。聖霊によってのみ、信仰によってのみ、本物の愛を知ることが出来る。愛には名詞がない、動詞のみである。

 

★そして第四の祈りは、

  「神に満ちているもののすべてをもって、あなたがたが満たされるように、と祈る。」である。この祈りは、充満(プレローマ)を求める祈りである。「神の満ちあふれる豊かさのすべてに与かる」とは、第一,二,三の祈り、すなわち、御霊によって「内なる人」が強められ、「キリストを心のうちに住ませ」、極めがたい「キリストの愛を知る」。この三つの祈りが聞かれたとき到達するキリスト者の姿が「満たされる(充満プレローマ)」であると言えよう。今、パウロの祈りを見てきたが、教会が、私たち信仰者が、いつまでも低レベルに留まるのでなく、私たちもこの祈りをして聖霊の充満、恵みの充満が与えられたい。この充満の祈りこそ、ウェスレー、バックストン、柘植不知人、そして末永弘海先生方が「充満」を体得された祈りであった。

 

★頌栄 二〇~二一節「どうか、わたしたちのうちに働く力によって、わたしたちが求めまた思うところのいっさいを、はるかに越えてかなえて下さることができるかたに、教会により、また、キリスト・イエスによって、栄光が世々限りなくあるように、アァメン。」

パウロの祈りの最後は頌栄である。私たちの結びは何時でも神様をほめ称えることで終わる。すなわち「頌栄」で終わる。このアァメンは、パウロのアァメンと同時に、教会のアァメン、私たちのアァメンである。そして、これに賛同して、アァメン(真実)と一同が和して唱える教会は祝福されてる。

わたしたちはパウロに祈られているのである。この祈りにアァメンと応える時パウロと共なる信仰となる。思えば祈ることの少ない、また自分の願い事しか祈らない者であるが、祈りの本質を教えられる。この祈りは全能の神に聞かれる故に、パウロは神を賛美し、ほめたたえるのである。