2018、1、28               降誕節第5主日礼拝       牧師 川﨑善三

 「新しい教え」                          マルコ1:21~28

  イエスさまに与えられている時間は、限られていました。三年間という短い期間に宣教のわざと救いのわざと弟子たちの教育と言う、三つの大きな課題を成し遂げなければなりませんでした。マルコ福音書には、限られた時間の中で多くのことを成就するということを表す特徴的な言葉が出てきます。「それからすぐに、御霊がイエスを荒野においやった」(マルコ1:12)「すぐに」という言葉が、それです。ですから、マルコ福音書一章にはイエスの洗礼、荒野の誘惑、最初の弟子たちの選び、そして、カペナウムでの奇跡と四つの出来事が記されています。
 さて、イエスさまは四人の弟子たちと共にガリラヤ湖畔のカペナウムに行かれました。二千年前のカペナウムは、ユダヤからダマスコに至る街道の町で、たくさんの人が住む地方都市として大きな町でした。イエスさまは安息日に会堂に行かれました。ユダヤ人の会堂はシナゴグと呼ばれ、そこに集まり聖書を読み、讃美歌を歌い、ラビと呼ばれる教師が説教や説話を話す場所でした。シナゴグは、バビロン捕囚以前にはありませんでした。バビロン捕囚から帰ってきたユダヤ人は律法を守ることの重要性を認識するようになっていましたので、エルサレムの復興と共に彼らのすんでいる町には、必ずシナゴグを建てて、安息日に集まり、律法の学びと神を礼拝することを大切にしていました。イエスさまは会堂にはいり、神の教えを教えられました。「人々は、その教えに驚いた。律法学者たちのようにではなく、権威ある者のように教えられたからである。イエスさまの教えは権威ある者の教えでした。律法学者のような単なる言葉の解釈ではなく、まるで神ご自身が語られるように感じたというのです。
 渡辺善太先生がこんな事を言われました。「バックストン先生は学者でも、神学者でも雄弁家でもない。だが、バックストンの説教は聖書によって、神が語りたもう説教であった。わたしが二十一、二歳の時、九段教会でバックストンの説教を聞いた。そのときの御言は『火をもって答える神を神とせよ』であった。その時、わたしはずしんとやられてしまった」神が御言を通して、私たちに語りかけられる。イエスさまの説教はまさにそのとおりのものでした。そして、けがれた霊につかれた人に言いました「けがれた霊よ、この人から出て行け」すると、けがれた霊は彼をひきつけさせ、大声をあげて出ていきました。イエスさまの教えは権威ある教えでした。イエスさまが言われると、そのとおりになりました。イエスさまの言葉に、けがれた霊は従わざるを得ないのです。イエスさまの教えは権威があると共に、「新しい教え」でした。ユダヤ人たちが聞いたことのないような教えだったのです。
 イエスさまは言われました。「心の貧しい人たちはさいわいである。天国は彼らのものである」(マタイ5:3)私たちは、心の豊かな人が幸福なのではないかと思います。しかし、私たちの心は豊かではありません。人に対するそねみ、ねたみ、うらやみ、むさぼりという思いでいっぱいです。そのような者が幸福であるはずがありません。しかし、自分の心が貧しい心であることを自覚する人は、神のもとに来ることができます。そして、救われるのです。天国はそのような人のものです。
 イエスさまの教えは新しい教えです。その教えは権威ある方の教えです。「あなたは、これを信じるか」(ヨハネ11:26)と主は問われます。