特別礼拝説教
   「内に塩をもつ」

         マルコ9・38~50
  前 網干教会牧師 仲森 文隠師

 弟子たちが、イエスの名を使って悪霊を追い出す人々をとがめた時、イエス様は、狭い了見で人々に接するのでなく受け入れなさい、と仰いました。四〇節の「わたしたちに反対しない者は、わたしたちの味方である」という御言葉は、私に家族のことを思い出させます。
 私はノンクリスチャンの家庭で育ちました。一人だけ教会に行くことで、家族とぶつかることもありましたが、「今日は教会やろ。早く行きなさい」と送り出してもらうことも多々ありました。「小さな弟子のひとりに一杯の水を飲ませるのは、私にしてくれたのと同じだ」と言われた通り、そんな家族の小さな行為をもイエス様が覚えておられ、後には家族のほぼ全員を教会へと導いてくださったのでした。
 ヨハネ一〇・一六に「わたしにはまたこの囲いにいない他の羊がある」とあるようにイエス様においては、囲いの中の人も外の人も愛の対象です。このイエス様の心をわが心として生きる時、私たちは神様の大きなご栄光にあずかることができるのです。
 この「他の人を広い心で受け入れなさい」という教えに続いて、四三~四八節には「自分に対しては厳しくあれ」という教えが記されています。「もし片方の手があなたをつまずかせるなら、切り捨ててしまいなさい。両手がそろったまま地獄の消えない火の中に落ちるよりは、片手になっても命にあずかる方がよい」とありますが、もし本当にその通りにしたら、多分大変なことになると思います。ですから文字通りそうせよということではなく、ここで読み取るべきは、「罪はどんなに自分の体で償おうとしても償いきれるものではない」ということです。つまり、私たちの背負いきれない罪をイエス様が背負ってくださったことを感謝して受けとめ、自分を甘やかすことのないよう祈り努める。この御言葉をこのように感謝と畏れをもって味わうことが大事なのです。 上記二つの教えを括るのが四九~五〇節の塩のたとえです。「人はすべて火で塩づけられねばならない。 塩はよいものである。しかし、もしその塩の味がぬけたら、何によってその味が取りもどされようか。あなたがた自身の内に塩を持ちなさい。そして、互に和らぎなさい」。
 塩になぞらえた教えは新約聖書に何度も出てきます。「地の塩」とか「塩のききめ」とか、今日の所では「互いに塩を持って、互いに和らぐ」とあります。塩は溶け込みやすく、味を引き立たせる役割があると話しに聞くことが多いと思います。
 しかし、もう一ヵ所、旧約聖書のレビ記二・一三には次のように記されています。「あなたの素祭の供え物は、すべて塩をもって味をつけなければならない。あなたの素祭に、あなたの神の契約の塩を欠いてはならない。すべて、あなたの供え物は、塩を添えてささげなければならない」と。
 レビ記によれば、塩には契約という意味があるのです。その絡みでお話しすると、私たちはイエス様の十字架の救いにあずかり、愛をもって従うという契約を交わしました。弟子たちは、ああそれなのに、一番偉いのは誰かと言い争い、自分に甘く、人に厳しい姿をさらす始末。これって、塩味を失った契約にしてしまっているということですね。そう考えると、愛する弟子たちに「(契約の)塩を欠いてはならない。あなたの供え物は塩を添えてささげなさい」とイエス様が諭されたのは、当然のことと思われます。 たちがささげるすべてのものは愛の契約に基づくのです。私たちは聖餐式を守ります。聖餐の恵みは、心に主の契約を新たにし、自分の内に塩味を取り戻し、他者と共に生きる有りようを自己吟味する所にもあるのです。
 八木重吉さんの詩の一つに「神のごとくゆるしたい。人が投ぐる憎しみを胸にあたため、花のようになったらば神にささげたい」とあります。
 勿論、彼は自力でできると思っていません。少しでもそうできるよう、イエス様にこの身をお任せしていこうと言っているのです。
 使徒パウロも、コロサイ四・六で「いつも、塩で味つけられた、やさしい言葉を使いなさい」と勧めています。さすがですね。
 時は受難節。イエス様のご受難を偲びつつ、自分の内にまかれた契約の塩を感謝して味わい、主の福音の恵みを、自らの言動において証できるよう、主の御導きを祈りたく願うものであります。
(二〇一八・二・二五礼拝説教要旨)