2018、3、11             受難節第4主日礼拝       牧師 川﨑善三

「イエスの変容」                          マルコ9:2~10

イエスさまが神の子キリストであるというしるしは、福音書を通じて語られるメッセージですが、中には私たちの想像を超えるような出来事がしばしば出てきます。
 今日の話はそのひとつです。「六日の後、イエスは、ただペテロ、ヤコブ、ヨハネだけを連れて高い山に登られた」(マルコ9:2)六日の後という言葉には、どういう意味があるのでしょうか。それは、イエスさまが弟子たちに十字架の話をされた日から数えてという意味があります。「イエスは弟子たちとピリポ・カイザリヤの村々へ出かけられた」(マルコ8:27)イエスさまは、弟子たちとイスラエルの国境のピリポ・カイザリヤ地方に出かけられました。その地方は偶像が神々として崇められているような所でした。イエスさまは、弟子たちに質問されました。「人々は、わたしをだれと言っているか」弟子たちは答えました。バプテスマのヨハネだと言っています。預言者のエリヤだと言い、また預言者のひとりだと言っている人もいます。人の評判はいろいろでした。イエスさまは確かに力ある人であり、教師であり、権威のある方と目されていましたが、多くの人の思いは預言者であるというのが、一致した見方であったのです。そこで、イエスさまは、弟子たちに尋ねられたのです。「それでは、あなたがたはわたしをだれと言うか」この時、弟子たちはすぐに答えられなかったようです。すると、ペテロが答えました「あなたこそキリストです」この答を聞いて、イエスさまは十字架の死と復活について話されました。「人の子は必ず多くの苦しみを受け、長老たち、祭司長、律法学者たちに捨てられ、また殺され、そして三日の後によみがえる」(マルコ8:31)
 このようなことがあってから「六日の後」というのが、今日の話の順序としてあるわけです。十字架の話をされた後で、弟子たちを励ます意味もあったのかも知れません。限られた弟子を連れて、高い山に登られました。この後やってくる十字架の苦難に対して祈って備えるためでした。祈っておられる間に、イエスさまの姿がどんどん変わっていきました。「その顔は日のように輝き、その衣は光のように白くなった」(マタイ17:2)この時の出来事は、もう一度、イエスさまが私たちの所に来てくださる再臨のお姿を表すものです。「わたしたちの主イエス・キリストの力と来臨とを、あなたがたに知らせた時、わたしたちは、巧みな作り話を用いることはしなかった。わたしたちが、そのご威光の目撃者なのだからである」(Ⅱペテロ1:16)
 私たちもイエスと共に聖なる山にいて、天から出たこの声を聴いたのである。ペテロが栄光のイエス・キリストを見、天からの声を聞いたとき、やがて、イエスさまが再臨されるとき、この栄光のお姿で来て下さると信じることができました。わたしたちがそのご威光の目撃者であると言っているのは、そのことです。そして、イエスさまがこの栄光の体で再臨されるとき、私たちも同じ栄光のからだに変えられて、神の御国に招いていただけるのです。「終りのラッパの響きと共に、一瞬にして変えられる」(Ⅰコリント15:51)イエスさまの変容は、私たちにとっても希望であり、喜びであります。「わたしはよみがえりであり、命である。わたしを信じるものはたとい死んでも生きる」
 私たちがよみがえる時、新しい体が与えられます。そのことを感謝したいと思います。