2018、3、18           受難節第5主日礼拝       牧師 川﨑善三

「十字架の意味」                        マルコ10:32~45
 
 イエスさまの宣教活動は、終わりに差しかかってきました。最後のエルサレム訪問が始まりました。「さて、一同はエルサレムへ上る途上にあったが、イエスが先頭に立って行かれたので、彼らは驚き怪しみ、従う者たちは恐れた」イエスさまのこの時の行動は、特別な気迫と勢いにあふれていました。ふだんは、弟子たちと語り合いながら和気藹々と進んで行かれていたのに、この時はそのような雰囲気が一向に感じられず、まっすぐに顔をエルサレムに向け、わき目もふらず進んで行かれるのを見て、弟子たちは驚き怪しみ、従う者は何事かと思うほど恐れを憶えたのです。
  イエスさまは、その理由を話されました。「見よ、私たちはエルサレムに上っていくが、人の子は祭司長、律法学者たちの手にわたされる。そして彼らは死刑を宣告した上、彼を異邦人に引きわたすであろう。また彼をあざけり。つばきをかけ、むち打ち、ついに殺してしまう。そして彼は三日の後によみがえるであろう」イエスさまがこの話をされたのは、この時が初めてではありません。宣教を開始された早い段階から話されていたことです。この話を聞いた弟子たちがどのように考えていたかについて、聖書は何も語りません。無関心であったわけではありませんが、弟子たちにはそれがどういう事なのかがわからなかったという事です。
 さて、ヤコブとヨハネが、イエスさまのもとに来てお願しました。「あなたが栄光をお受けになるとき、ひとりをあなたの右に、ひとりを左にすわるようにしてください」ふたりは、キリストユダヤ人の王となられると信じ、期待していました。旧約聖書によれば、キリストはユダヤ人の王となると預言されていましたが、しかし、キリストは私たちのために苦しみを受けるとも預言されているのです。「彼は侮られて人に捨てられ、悲しみの人で病を知っていた。――その打たれた傷によってわれわれは癒されたのです。」(イザヤ53:3,5)
 ある人が教会に行くようになり、それまでの自分の姿がどのようなものであるかがわかってきました。万引きをしたこと、親の財布からお金を取ったことなどを気づかされました。神がおられるなら、自分こそが神の怒りを受け、滅ぼされるという事がわかりました。その時、イエスさまが私の身代わりとなって死んで下さったのだという事がわかりました。イエス・キリストの十字架には、そのような意味があります。
 ところがヤコブとヨハネはその事を悟らなかったのです。他の弟子たちはこの事を知って憤慨しました。彼らも同じようにイエスさまの右と左にすわりたい、偉くなりたいという願いを持っていたからです。
 イエスさまは、みんなを呼び寄せていわれました「異邦人の支配者はその民の上に権力をふるっている。世の中の偉い人たちは、みなそのようである。しかし、あなたがたの間では、そうであってはならない。あなたがたの間で偉くなりたいと思う者は仕える人となり、かしらになりたいと思う者は、すべての人の僕とならねばならない。人の子がきたのも仕えられるためではなく、仕えるためであり、多くの人のあがないとして、自分の命を与えるためである」 
 私たちはキリストの十字架によって罪がゆるされます。また、三日目によみがえられたことによって永遠の命が与えられることを信じます。