2018、4、1       復活節第1主日礼拝(イースター)    牧師 川﨑善三

「キリストの復活」                        マルコ16:1~13

 金曜日の朝、十字架刑を宣告されたイエスさまは、十字架を背負ってゴルゴダの丘に向かいました。イエスさまは、前日の夜、ゲッセマネの園で捕えられてから一睡もしておられません。その疲労は極限に達していました。何回も倒れられて、とうとう最後には意識を失ってしまわれました。その時、ローマ兵はひとりの人を見つけました。クレネ人シモンという人です。シモンは過越の祭でエルサレムに来ている時、この騒動に巻き込まれたのです。シモンにとっては迷惑な話です。しかし、彼がイエスさまに代わって、十字架を背負い処刑場に向かったということは、彼にとって天国への門となりました。シモンは、この事によってイエスを救い主として信じるようになりました。そして、彼のふたりの息子も妻も信じました。イエスさまに代わって十字架を背負った、こうした事を考えると、私たちがイエスさまを信じるようになると言う事は、私たちの知らないところで神さまがそのようにして下さったのではないかと思えるのです。
 私たちが救われたのは神の選びがあったればこそだと思えるのです。「あなたがたがわたしを選んだのではない。わたしがあなたがたを選んだのである」とイエスさまが言われたとおりのことを、シモンさんの救いに見ることができます。
 さて、イエスさまはゴルゴタの丘で、朝の九時から昼の三時にかけて苦しみを受けられました。そして三時ごろ、大声で叫ばれました「エリ、エリ、レマ、サバクタニ」「わが神、わが神、どうしてわたしをお見捨てになったのですか」イエスさまは、私たちの身代わりになって罪の審きを受け、神から見捨てられるという経験をされたのです。そして、大声で叫ばれたあと、ついに息を引き取られました。ユダヤ人は安息日が始まろうとしていたので、イエスの死体を十字架の上に残しておくのは良くないと思って、ピラトに願って死体を取りおろすことにしました。ふたりの犯罪人も十字架から取りおろされ、その足は折られました。しかし、イエスさまはもう死んでおられたので、その足を折ることはしませんでした。しかし、ひとりの兵卒が、やりでそのわき腹を突き刺しました。すると血と水とが流れ出ました。アリマタヤのヨセフとニコデモは、イエスさまの死体に香料をぬり、亜麻布で巻いて、まだだれも葬られたことのない新しい墓に、イエスさまの遺体を納めました。これらの出来事が金曜日のことです。そして、安息日が過ぎ、日曜日の朝を迎えたのです。
 この日の出来事は、四つの福音書に記載されていますが、それぞれが違っています。そのことを説明するには、その日の朝、何人かの弟子たちがいくつかの組に分かれて、それぞれが別々に行動したと言うことです。そのひとつのグループのことがマルコ福音書に出てきます。女たちは香料を買って墓に行きました。墓に着くと、入口を閉ざしてあった石はころがされていました。天の使が現れ、言いました「イエスはよみがえって、ここにはおられない。ごらんなさい、ここがお納めした場所である」復活を信じることは難しいことだと思います。
 しかし、イエスさまを信じて救われたと信じる人々は、イエスさまの復活を信じることができます。それは、信仰の結果なるたましいの救いを得ているからです。主はよみがえられたのです。