2018、5、27      聖霊降臨節第2主日礼拝      牧師 川﨑善三

「神の子とする霊」                       ローマ8:12~17

 パウロによって、キリスト教の神学が確立しました。パウロは各地に散在するキリスト教会に手紙を書きました。コリント人への手紙、ローマ人への手紙、ガラテヤ人への手紙など、みんなパウロが書いたものでそれらの手紙が新約聖書となり、今に伝えられています。ローマ人への手紙は、パウロの書いた手紙の中で最も詳しくイエス・キリストの福音が語られています。手紙であると共に、神学論文とも言うべきものであります。初期の教会では、ユダヤ人クリスチャンと異邦人クリスチャンとが、どうすれば神に受け入れられるのか、クリスチャンはどのように生きるべきかについて、明確な教えが示されていませんでした。この事は、律法を守っているユダヤ人クリスチャンと律法を守っていない異邦人クリスチャンの間に、両者が共に神に受け入れられるということはどういうことなのかと言う疑問が生じました。すなわち、律法と福音はどういう関係にあるのかという問いに、パウロが答えようとしたのがローマ人への手紙が書かれた目的でした。パウロは、イエス・キリストの福音は神がアブラハムに約束されたことの成就であると言いました。「アブラハムがその行いによって義とされたのであれば、彼は誇ることができよう。しかし、神のみまえではできない。なぜなら、聖書はなんと言っているか『アブラハムは神を信じた。それによって彼は義と認められた』とある」(ローマ4:2,3)アブラハムは妻サラを妹と偽り、危険な目にあわせました。また、神の約束を信じないで、つかえめハガルによって後継ぎを求めました。その行いによって義とされるような人ではなかったのです。「アブラハムは神を信じた。それによって彼は義と認められた」人が義とされる、すなわち、神に受け入れられるのは信仰だけです。律法を守ることが救いの条件ではないと言う事です。イエス・キリストの福音を信じるだけで、私たちは義とされ、神に受け入れられるのです。「それは、イエス・キリストを信じる信仰による神の義であって、すべて信じる人に与えられるものである。そこにはなんらの差別もない」(ローマ3:22)救いはユダヤ人も異邦人もなんらの差別もなく、イエス・キリストを信じる信仰によって義とされるのであって、律法の行いによって義とされるのではないと、パウロは言いました。それはイエス・キリストが十字架にかかって、私たち罪人の身代わりとなって命を捨てて下さったからに他ならないのです。
 旧約聖書に記されている神の救済の歴史は、イエス・キリストによってすべてが完成すると預言されているのです。そして、パウロはイエス・キリストの福音を信じる人々には、ご聖霊が内にお宿り下さると言いました。ご聖霊が信じる人の内に宿って下さるという事は、弟子たちがペンテコステの日に経験したことです。ご聖霊は、信じる人々の内に宿り、信じる人々と共に働いておられます。私たちは、みんなご聖霊を受けています。私たちの内に御霊が宿っていて下さいます。「すべて神の御霊に導かれている者は、すなわち、神の子である」(ローマ8:14)