2018、7、22           聖霊降臨節第10主日礼拝   牧師 川﨑善三

「わたしを受け入れる者」                   マルコ9:33~41

 神さまは、いにしえから預言者たちの口を通して、救い主が来られるということを預言しておられました。そして、終わりの時に救い主を女から生れさせ、この世におつかわしになりました。イエスさまはご自分の誕生のときの不思議な出来事を、両親から聞いていました。ベツレヘムに生まれたこと、羊飼いたちがお祝いに来たこと、東の国から博士たちが来たこと、ヘロデ王に殺されそうになりエジプトに逃げたこと、そんな話を両親から聞いて知っていました。そして、わたしは神からつかわされた者であるという自覚を持っておられました。また、バプテスマのヨハネとの出会いを通して救い主であると言う事も知っておられました。救い主は、世の救いのために命を捨てなければならないという事もわきまえておられました。そして、弟子たちに機会あるごとに十字架につけられて死ぬことと、三日の後によみがえることをお話しになりました。
 「人の子は人々の手にわたされ、彼らに殺され、殺されてから三日の後によみがえるであろう」(マルコ9:31)しかし、弟子たちはこの事を悟らず、またそれはどういう事ですかと尋ねる者さえいませんでした。弟子たちは、イエスさまの将来のことではなく自分たちの将来のことに関心がありました。一行がカペナウムに帰ってきて、家にいたとき、イエスさまは弟子たちに尋ねられました。「あなたがたは途中で何を論じていたのか」弟子たちは、誰が一ばん偉いかと論じ合っていたので、誰も恥ずかしくて答える者がいませんでした。イエスさまは、十二弟子を呼び集めて言われました「だれでも一ばん先になろうと思うならば、一ばんあとになり、みんなにつかえる者とならなければならない」この世の価値観では、偉い人は他の人を支配し、自分に仕えさせます。しかし、神の国で偉い人は、みんなの一ばんあとになり、みんなに仕える者とならなければならないのです。そして、ひとりの幼な子をまん中に立たせ、その子を抱いて言われました「だれでも、このような幼な子のひとりをわたしの名のゆえにうけいれる者は、わたしを受けいれるのである。そして、わたしを受けいれる者は、わたしを受けいれるのではなく、わたしをおつかわしになったかたを受けいれるのである」
 この世の人々は、幼な子を無視し、軽々しくあつかいます。しかし、イエスさまの名のゆえに幼な子を受けいれる者はイエスさまを受けいれるのであり、イエスさまを受けいれる者は神を受けいれるということであります。イエスさまの教えは、高慢な人には価値のない言葉となるでしょう。しかし、謙遜な人はイエスさまの教えを聞いて、ますます謙遜になることができます。パウロはローマで投獄されていました。そんな時、パウロを困らせようとして、ねたみや闘争心からキリストを宣べ伝える者がいました。しかし、パウロはこう言いました。「見えからであるにしても、真実からであるにしても、要するに、伝えられているのはキリストなのだから、わたしはそれを喜んでいるし、また喜ぶであろう」自分のことはそっちのけで、ただ神の栄光があらわれるようにと願っている、真実で謙遜なパウロの姿が浮き彫りになっています。神さまのことを第一に願う者となりましょう。